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スムート=ホーリー法(スムート=ホーリー関税法)

1930年、フーヴァー政権下で出された世界恐慌対策で、高関税によって国内産業を保護しようとした。各国のアメリカ向け輸出が減少し、結果的に世界恐慌を更に悪化させた。

 法案提出者のスムート Smoot とホーリー Hawley (ホーレーとも表記)の両名の姓からスムート=ホーリー法、あるいはホーリー=スムート法、「1930年関税法」とも言われる、アメリカの関税法で、1930年6月世界恐慌下のアメリカ合衆国で議会を通過、フーヴァー大統領が署名して制定された、高関税政策立法。
ねらいと結果 国内の農産物価格を引き上げ農民を守るために構想されたが、対象は農産物以外の工業製品にも当てはめられ、国内産業全般を保護して高賃金を維持することによって恐慌の克服をめざしたものであった。しかし、アメリカが保護貿易に転じたことに対して、対抗上、各国も一斉に高関税にとったことによって、世界貿易は停滞し、世界恐慌をさらに拡大するという逆効果に終わった。スムート=ホーリー法は、自由貿易を原則とした世界貿易の順調な成長を終わらせる結果を招いたと言える。

高関税政策が恐慌を悪化させる

 フーヴァー大統領は第一次世界大戦後まもなくから明らかになっていた農産物の下落を止めるため、外国からの農作物輸入を制限する高関税政策を検討していた。1929年10月に世界恐慌が始まると、議会内にも保護貿易主義が台頭し、上院のスムート議員と下院のホーリー議員が連名で農産物のみならず工業製品にも高関税を課す法案を提出した。その法案が議会を通過するとただちに大統領は署名した。
 このような保護貿易主義は世界経済全体から見ればマイナスであり、恐慌対策としては逆効果であると主張する1000名以上の経済学者が大統領に署名しないよう警告したが、フーヴァーはそれを無視して署名し、1930年6月17日に同法は成立した。これによって3300品目のうち890品目の関税が引き上げられ、アメリカの輸入関税は平均33%から40%となった。オランダ、ベルギー、フランス、スペインおよびイギリスは直ちに報復的関税措置を発表した。
 結果としてアメリカへの輸出の門戸を閉ざされたヨーロッパ経済の危機が醸成され、ドイツの銀行制度の崩壊となった。一面で31年春にはアメリカの生産と雇用は向上の兆しを見せたので、フーヴァーは保護主義が正しかったと主張し、アメリカを恐慌に陥れたのは軍事支出を増大させて財政均衡を失ったヨーロッパ各国の政策が原因であると後に述べている。1932年の大統領選挙ではフランクリン=ローズヴェルトはフーヴァーの高関税政策を厳しく批判し、選挙戦で勝利することとなった。<林敏彦『大恐慌のアメリカ』1988 岩波新書 p.89-91>

F=ローズヴェルト政権での経済ナショナリズムの修正

 次期大統領F=ローズヴェルトのもとでニューディール政策が始まると、国務長官となったコーデル=ハルの努力により、1934年6月に互恵通商協定法が成立して、経済ナショナリズムを修正し、多角的、互恵的な貿易関係を復活させた。1936年にはイギリス・フランスとの三国通貨協定、38年に米英通商協定を制定し、続いて39ヵ国との協定を締結した。1939年にはその流れで中立法を改正し、イギリスに対する財政的・軍事的支援を決めた。共和党はこの時点でも高関税政策を標榜したため、輸出不振に悩む産業界の支持を失い、ローズヴェルトの再選を許すこととなった。<秋元英一『世界大恐慌』1999 講談社学術文庫 p.229-230>

第二次世界大戦後の自由貿易体制

 アメリカが1930年にスムート=ホーリー法による高関税政策=保護貿易政策に転じたことは、世界大戦前に始まり、戦後に広がったていった自由貿易による国際経済の成長を終わらせ、世界恐慌を沈静化させるどころか、かえって悪化させ、世界経済のブロック経済化への端緒となった。それが第二次世界大戦に向かう要因の一つとなったことを反省し、第二次世界大戦中の 後に、連合国のリーダーシップによって1944年7月ブレトン=ウッズ会議が開催され、自由貿易の原則や国際通貨基金(IMF)の設立による経済危機への備えなどのブレトン=ウッズ体制が築かれた。1947年10月には、関税と貿易に関する一般協定(GATT)が成立した。