ベルリン=オリンピック
1936年8月、ヒトラー政権の下で開催され、国威発揚型オリンピックの最初となり、ナチスの宣伝に利用された。ナチスの人種差別政策に反対して不参加運動も強まる中、開催された。
1936年8月1日、ベルリンの大競技場で10万の大観衆を前にヒトラーが開会を宣言。参加国49、選手3936名、実施競技21、種目129。日本選手も249名が参加、三段跳びの田島直人、「前畑がんばれ!」で有名な前畑秀子が女子で最初の金メダルを獲得した。また男子マラソンでは「日本代表」の朝鮮人孫基禎が優勝。「東亜日報」など朝鮮の新聞が孫選手の胸の日の丸を消して掲載したため、朝鮮総督府によって発行禁止処分を受けた。 → 国際オリンピック大会
このまぼろしのオリンピックに参加するためにバルセロナに来た青年の中には、そのままスペインにとどまり、国際義勇軍となったものもあった。
オリンピックとヒトラー
オリンピックのベルリン開催はナチス政権成立前の1931年に決まっていた。ヒトラーは当初、オリンピックを「ユダヤ主義に汚された芝居だ」とけなしていたが、34年にイタリアのムッソリーニが第2回ワールドカップ・イタリア大会をファシズムの宣伝に利用して成功したのを見て、「アーリア人種の優秀さを証明する」機会と考えるようになり、また宣伝相ゲッベルスも開催に力を入れたため、全面的なナチス宣伝の大会となった。宣伝の手段として初めて「聖火リレー」が採り入れられ、アテネからベルリンまで、ナチ隊員の伴走で実施された。この聖火ルートはナチス=ドイツのバルカン進出路である「侵略の道」となる。また、女性映画監督レニ=リーフェンシュタールによる記録映画『オリンピア、民族の祭典』『美の祭典』が製作され、ナチズムのプロパガンダとされた。Episode ヒトラーの思惑をぶちこわした黒人
ヒトラーの「アーリア人の勝利」というもくろみによって事前にユダヤ人、ユダヤ系選手は排除された。ドイツ選手の活躍は目覚ましかったが、ヒトラーのおもわくは一人の黒人によってもろくも崩れ去った。それは、アメリカの黒人選手ジェシー=オーエンス。100m、200m、走り幅跳び、400mリレーで4コの金メダルを獲得して大会のヒーローとなった。その活躍に黒人を下等人種として蔑視していたヒトラーは、苦虫を噛みつぶしたようにながめ、ヒーローを讃えようとしなかった。Episode もう一つのオリンピック
ヒトラー・ナチスに利用されたベルリン・オリンピックに対抗して、オリンピックの理念を守り、人種差別と拡張主義に反対するオリンピックを開催しようという国際世論が盛り上がった。その大会は人民戦線政府のスペイン・バルセロナで開催されることとなり、「人民オリンピック」と名づけられて同じ1936年7月19日、開会を迎えた。ところが開会式当日、共和政打倒をかかげるフランコ軍の反乱が勃発、バルセロナでも銃声がひびき、大会は開催できずに、スペイン内戦に突入してしまった。<以上、広畑成志『アテネからアテネへ オリンピックの軌跡』2004 本の泉社 p.67-80>このまぼろしのオリンピックに参加するためにバルセロナに来た青年の中には、そのままスペインにとどまり、国際義勇軍となったものもあった。
映画『民族の祭典』
ベルリン大会の記録映画『オリンピア、民族の祭典』がある。今見てもその斬新な映像には感心させられる素晴らしい映画であるが、ヒトラーの開会宣言、観客が一斉にナチス式敬礼をする開会式など、恐ろしいシーンもつぶさに記録されている。しかし、ヒトラーが嫌った有色人種の活躍がカットされるようなことはなかった。競技でスターになったのはアメリカの黒人選手ジェシー=オーエンスだった。また、日本人選手の活躍も三段跳びの金メダリスト田島直人、1万メートルで健闘した村社講平などが登場し、戦前の日本の競技レベルの高さを伝えている。特に棒高跳びの決勝が日没後も続けられ日本の西田、大江両選手がアメリカ選手と死闘を繰り返した(実際には再現映像だが)シーンも描かれている。最後のマラソンで優勝した孫基禎選手が、日の丸と君が代にじっと頭を垂れているのが印象的。改めて日本の植民地支配がもたらした悲しいシーンだ。 → YouTube 映画『オリンピア 民族の祭典』参考 レニ=リーフェンシュタールの回想
この映画を撮ったのはヒトラーの肝いりで、女優として活躍していたレニ=リーフェンシュタール。彼女の回想録には大会の舞台裏が書かれていて、大変面白い。ヒトラーやゲッベルスが彼女に言い寄ったとか、ゲッベルスと喧嘩になったとか、彼らの裏の姿を伝えている。また十種競技で優勝したアメリカ選手と恋に落ちるなど、奔放ではあるが、優れた映画作家だった彼女らしい(大半は自慢話ではあるが)映画作りの苦労話もあって面白く読める。その中の一節にヒトラーがオリンピックに実は乗り気でなかったというこんなエピソードも語られている。Episode 乗り気でなかった?ヒトラー
1935年、ベルリン・オリンピック記録映画を監督することになったレニ=リーフェンシュタールはミュンヘンのヒトラーの自宅に招かれた。会話を重ねるうちに……(引用)それから意外なことを言った。「私自身はあまり大会に興味がないのです。できれば部外者でいたいところだが……」
「まあ、それはまたなぜですの?」
ヒトラーは躊躇した。そして言った。「我々はメダルを獲得するチャンスがない。アメリカ人が勝利のほとんどをかっさらい、黒人が彼らのスターとなるでしょう。これを見物するのはあまりいい気分がしない。それからナチズムに批判的な外国人も大勢来て、不愉快の種になるもしれません」さらに続けて、オリンピア・スタジアムは気に入らない、石柱が細くて、建物は偉容を欠くとも言った。……<レニ=リーフェンシュタール/椛島則子訳『回想』上 1995 文春文庫 p.382>