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ゲッベルス

ヒトラーのナチス政権で宣伝省大臣としてプロパガンダを管轄し、大衆をナチス支持に導いた。1945年5月、ヒトラーに準じて自殺。

 ゲッベルス(1897~1945)は、ナチス=ドイツの宣伝省大臣として、マスコミや映画、様々な行事を通じてヒトラー神格化とナチズムの浸透に大きな力を発揮した「宣伝(プロパガンダ)の天才」として知られる。そしてヒトラーに最後まで忠実な行動を続け、そのヒトラー自殺直後に妻マクダや娘6人を道連れにして自殺した。そのナチスとしての典型的な生き方は、その生涯の日記のすべてが1987年以降に順次刊行されたことによって明らかになった。以下、その日記などをもとにゲッベルスの実像を追った平井正『ゲッベルス』(1991 中公新書)によって、ナチズムの理解に必要な部分だけを取り上げる。その他の興味深いエピソードは同書を見られたい。

人間嫌いの高校生

 ラインラントの小さな町でカトリック教徒の中流家庭の3男として生まれたゲッベルスは、子供の時に足の病気にかかり、右足は生涯、整形用の靴を履かなければならなかった。後にこのことが、えび足の悪魔メフィストを連想させ、誇張された悪魔的人物というイメージが喚起されることになった。肉体的ハンディは彼を人間嫌いにし、高等学校(ギムナジウム)は同年配の若者がダンスに興じていても、彼は憎悪のまなざしであたりを見渡すだけであったという。日記には「断念を私は学んだ。そして人間という悪党への無限の軽蔑!」と書いている。成績は優秀で、ラテン語の古典などを学び、文学に興味を持った。第一次世界大戦が勃発すると彼も志願したが、兵役検査で不合格となる。高校を成績優秀で卒業したが、その後はボン、フライブルク、ミュンヘンなどで大学に籍を置きながら、恋愛に夢中な放浪生活を送った。それでも1921年にハイデルベルクで国文学博士号を取得し、その後はG博士と自称するようになる。その後は作家として身を立てようとして、小説を発表しながら、民族主義新聞の『民族の自由』に寄稿するようになった。

ナチ党入党とヒトラーへの心酔

 1925年2月27日、ミュンヘン一揆で獄中にあったヒトラーが出獄し、ナチ党が再建される。このころ、ゲッベルスはラインラント管区のナチ党に入党し、その広報を担当するようになった。この頃はまだヒトラーとは会っていなかったが、10月頃ヒトラーの本を読んで感激し、ミュンヘンに行き11月6日に初めて面会した。そのときの日記にはゲッベルスのヒトラーへの心酔ぶりが記されている。
(引用)僕は車でヒトラーのところへ行く。彼はちょうど食事中だ。と思ったらさっと立ち上がって、もう僕らの前に立っている。僕の手を握る。まるで昔からの友人のように。そしてこの大きな青い目。星のようだ。彼は僕に会えて嬉しいという。僕はすっかり喜んだ。彼は10分間引っ込む。その間に僕は集会に行く。そして二時間演説する。大喝采。その時万歳の叫びと拍手。彼が来たのだ。彼は私の手を握る。ここで彼はさらに半時間話す。機知、アイロニー、ユーモア、嘲罵、真摯、激情、情熱をもって。王者たるすべてをこの男はもっている。生まれつきの護民官、未来の独裁者。夜遅くまで僕は彼の宿で彼を待った。握手。さらに長い論議。<平井正『ゲッベルス』1991 中公新書 p.34-35>

宣伝の才能発揮

 1926年10月、ゲッベルスはヒトラーからナチ党のベルリン大管区指導者に任命された。大管区と言っても当時のベルリンのナチ党員は千人程度しかいなかった。集会をたびたび開き、反対派に対しては突撃隊が暴力を振るい、流血事件を起こし、警察に集会を禁止されるが、ゲッベルスは警察と戦いながら大衆動員と宣伝のテクニックを学んでいく。それはヒトラーが重視した宣伝工作の実行だった。その頃、宣伝の手法についてこんなことを述べている。
(引用)宣伝は精神的認識を伝える必要もなければ、おだやかだったり上品だったりする必要もない。成功に導くのが良い宣伝で、望んだ成功を外してしまうのが悪い宣伝だ。たといそれがどんなに魅力的であってもである。重要なのは宣伝の水準ではなく、それが目的を達することである。<p.74>

国会議員となる

 1928年5月に総選挙にナチ党は本格的に候補者を立て、ゲッベルスも立候補した。ナチ党の広報誌『攻撃』で、ゲッベルスはこう書いている。
(引用)われわれが国会に入るのは、民主主義の兵器庫の中で民主主義自身の武器をわれわれのものとするためである。われわれが国会議員となるのは、ヴァイマル的なものの考え方を、その考え方そのものの助けで麻痺させるためである。・・・われわれは友人として乗り込むのでも、中立者としてやって来るのでもない。われわれは敵として乗り込むのだ! 羊の群れに狼が襲いかかるように、われわれは乗り込むのだ!<p.77>
 選挙結果はナチ党は12名にとどまり、社会民主党(153)、共産党(54)が党勢を伸ばした。ナチ党は敗れたがゲッベルスは当選し、国会議員として活動することになる。ゲッベルスは32歳だった。翌1929年、世界恐慌が起こり、ドイツに波及、失業者が急増して社会不安が強まる中、ナチ党の突撃隊と共産党支持の労働者の間の流血の対立が続く。ゲッベルスは共産党シンパとの衝突で死んだナチ党員を英雄に祭り上げて大々的な宣伝を行う。そのような中、ナチ党は1930年9月の総選挙では109議席を獲得、ドイツ内外に大きな衝撃を与えた。作家のトーマス=マンが『理性に訴える』という文章を発表して、市民に反全体主義での結束を呼びかけると、ゲッベルスはマンの講演会に部下を派遣して妨害するなど、直接的な言論封殺活動を展開した。また、アメリカ映画『西部戦線異常なし』にたいして、ドイツ軍を侮辱しているとして上映を妨害した。

宣伝省大臣となる

 ナチ党は1932年選挙(5月)でついに第一党となり、翌33年1月、ヒトラー内閣が成立、直後に国会議事堂放火事件が起こる。政府は共産党を犯人として翌日、直ちにその弾圧に乗り出したが、当時からこれはゲッベルスとゲーリング(ナチ党副総統)の陰謀ではないかと疑われていた。3月、ゲッベルスはヒトラー内閣の「国民啓蒙宣伝大臣」に就任、党宣伝部長も兼ねて、内政にも大きな権限を得た。まず国会開会式をフリードリヒ2世(大王、プロイセン王)の墓所のあるポツダムで大々的に行い、ビスマルクによるヒトラー首相任命を「第二帝国」から「第三帝国」への継承という形で演出した。 → ナチス=ドイツ/第三帝国

焚書を行う

 1933年5月1日、メーデーを「国民労働の日」としてナチの国家的祝祭に衣替えし、翌日には労働組合を解散させてしまった。このアイデアはゲッベルスがヒトラーと練り上げたものであった。さらに5月10日、ベルリンの旧図書館前のオペラ広場で「非ドイツ精神排撃の闘争委員会」の名で、ナチ学生同盟の学生らが、マルクス主義や自由主義関連の書物を火に投じ、その場でゲッベルスは次のような演説を行った。
(引用)「今や、極端なユダヤ的知性主義の時代は終わった。そしてドイツ革命の突発がドイツ的な道にも、通り道を開いた。今年の1月30日に国民社会主義運動が権力を掌握した時、かくも早く、かくもラジカルにドイツを片づけることができるとは、まだ知ることが出来なかった。革命は上から来たのではなく、下から突発したのだ。国民が再び国民への道を見いだしたのだ! そして老年がそれを理解しないうちに――われわれ若者がすでにそれを成し遂げたのだ! 古いものは焔の中になる。新しいものがわれわれ自身の心の焔の中から、再び立ち昇って来るだろう! この焔に光に包まれて、ひとつの誓いをしよう。国家(ライヒ)と国民とわれらの総統、アドルフ・ヒトラー、ハイル! ハイル! ハイル!」<p.158>

ベルリン=オリンピック

 1836年8月開催のベルリン=オリンピックを、ヒトラーとゲッベルスは最大限に利用した。ナチスのユダヤ人政策に抗議してアメリカなどのボイコットも考えられていたので、期間中はユダヤ批判はなりを潜め、ドイツ選手団には何人かのユダヤ人も加えられた。このオリンピックでは聖火リレーなどショー的な要素が初めて取り入れられ、巨大で整然としたナチス式祝祭として挙行され成功を収めた。その映像は女優出身の映画監督レニ=リーフェンシュタールが『ベルリン・オリンピック』という芸術性の高い作品として残している。

Episode 日独合作映画「サムライの娘」

 ゲッベルスは宣伝省大臣として、たくさんの映画を制作させた。映画という視覚を通じての政治宣伝という手段を使った最初の人物であった。様々な映画があるが、日独合作映画『サムライの娘』というのがある。1936年に日独防共協定が締結され、後に日独伊三国の枢軸国形成の第一歩となった。それをうけて川喜多長政の発案で日独合作映画の制作の話が持ち上がり、ドイツは山岳映画有名なアルノルト・ファンク、日本側は気鋭の映画作家伊丹万作が共同監督し、日本題『新しき土』、ドイツ題『サムライの娘』がつくられた。主演は日本側は原節子、小杉勇、早川雪舟らであった。実はジャポニズムを前面に出そうとするファンクと伊丹万作の意図がまったくかみ合わず、実際の映画は日独でほとんど違う映画になっていた。それでもドイツでの上映は大成功だった。それはゲッベルスが映画の報道を大々的にやるべしと通達した結果だった。

ナチスの芸術介入

 ゲッベルスは宣伝映画の制作やニュース映画の内容にも様々な指示を出したが、芸術全般についても様々な介入を行った。特に音楽では現代風の無調音楽やアメリカの黒人音楽、特にジャズを毛嫌いした。美術でも抽象絵画は芸術ではないとして認めなかった。それらはナチス=ドイツにとって「退廃芸術」であるとして迫害された。ユダヤ系の芸術家とその作品は特に攻撃の的とされた。それらの事例は多いが、音楽ではヒンデミットの曲の演奏を禁止したため、著名な指揮者フルトヴェングラーが抗議してベルリンフィルの首席指揮者を降板したことなどが有名である。

ゲッベルスの最後

 第二次世界大戦の戦闘が始まると、ゲッベルスの宣伝活動はあまり重きを置かれなくなり、ヒトラーの腹心も官房長のボルマンに移り、国防軍の軍人がその周りを固めるようになった。それでもゲッベルスもっぱらヒトラーの広報官としてラジオの前に立ち、戦時宣伝のデマゴギーの努力を続けた。スターリングラードの敗北を境にドイツ軍の後退が始まる。最終的にはベルリンの総統地下壕で、ヒトラーが愛人エヴァ=ブラウンと暮らす一室の向かい側に、妻と6人の娘を呼び寄せて一緒に生活することとなった。1945年4月30日、ヒトラーが自殺(前日に結婚式を挙げたエヴァとともに自殺した)すると、ゲッベルスは二人の遺体が消えるまで焼却されるのを見届け、翌5月1日、家族とともに死んだ。妻や娘をどのように手をかけたかはわかっていない。<以上、平井正『ゲッベルス』1991 中公新書>

ゲッベルスの映画政策

 ゲッベルス宣伝省大臣の宣伝映画や新聞統制については、次のような指摘もある。宣伝大臣としてのゲッベルスはたしかに宣伝映画を作らせたが、それは片手で数えられる程度でしかない。この時期のドイツ映画は技術的にも芸術的にもよくできた陽気で罪のない娯楽作品だったのであり、「ハイル・ヒトラー!」と敬礼する場面は全くない。人々は第三帝国が存在していることにまったく気付かず、自分たちの個人的なあこがれや夢の実現を映画の中で見ていたのだった。ゲッベルスが、彼の宣伝の大部分を、反ナチスと思われた人々の協力で行っていたことは、たいそう注目に値する。
(引用)第三帝国の映画俳優や監督の大部分は、当時“反体制派”(アンティス)と呼ばれた人びとだった。彼らは、いわば第三帝国を無視した映画を制作することによって、その多くは、一種の抵抗を行っているとさえ思い込んでいた。その際、彼らはまったく他意がなく、またとりたてて国民社会主義に役立つこともしなかったが、ゲッベルスの仕事を実行し、ドイツ国民にあることを――つまり、すべてはそうたいして悪くはないし、要するに、すっとまったく普通の暮らしをしているのだということを――言葉巧みに信じさせるのに手を貸したのである。・・・・<ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡 ビスマルクからヒトラーへ』1989 平凡社刊 p.228>

ゲッベルスの新聞政策

 ゲッベルスの映画政策と同じように、新聞政策においても、社会民主党や共産党の新聞はすべて禁止されたがブルジョワ派の新聞は禁止されず、存続させた。ブルジョワ系の大新聞、ドイツ国民新聞、フランクフルト新聞、ベルリン日報などの編集部には、ユダヤ人を別とすれば、古手がそのまま残っていた。ナチスから送り込まれたスパイはいたが、編集者はこれまでと変わらない記事を書くことができ、また書かなければならなかった。ナチスの新聞「フェルキッシャー・ベオーバハター」や親衛隊の機関紙「黒色軍団」、偏執的な反ユダヤ主義者の新聞「無頼漢」とは違った記事を書いた。読者は自分が望んだように表現された新聞を読むことができた。宣伝省が新聞社の編集者を集める会議は毎日開かれ、そこでいわゆる用語規定が手渡されたが、それは些細なことすべてを新聞社に指図するものではなかったので、新聞社は自社の文体を保つことができた。しかしこの用語規定は、ある種の報道を差し止めねばならない、あるいはある種の報道は大々的に強調すべき事を意味し、しばしばではないが、危機的な状況が生じた場合には時折、どのような方針をかかげなければならないかが編集局員にも告げられた。社説の内容に対し新聞は依然として多彩な記事を書くことができた。
(引用) 新聞は、(全面的な強制的同質化はおこなわれなかったので)依然として多彩だった。しかし、新聞が踏み越えてはならない境界線が引かれ、こうして、ゲッベルスとヒトラーにとって重要な問題を、非国民社会主義的な公衆にも吸収できるように教え込むことができたのである。それは、ほとんど天才的ともいえる形の世論の操縦、さらには公衆の気分の操縦だった。つまりそれは、帝国指導部の考えからすると、人々がまだ未熟で受けいれることのできないような理念を、人々に押しつけずに行われたのである。<ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡 ビスマルクからヒトラーへ』1989 平凡社刊 p.238>