国際義勇軍
1936~38年、スペイン戦争において人民戦線政府を支援するために各国から参加した義勇兵。コミンテルンが組織した国際旅団などがあった。
1936年7月、スペインにおいて、フランコ将軍の反乱宣言から一斉に始まったスペイン共和国人民戦線政府に対する軍隊の反乱は、モロッコのムーア人部隊とドイツ・イタリア軍の支援を受けてスペインの本土の約半分を制圧し、首都マドリードに迫った。このスペイン戦争では共和国政府は各国に対し軍事支援を要請したが、イギリス・フランスは不干渉政策を決定し、介入を拒否した。しかしイギリス・フランスなどの国内では、ファシズムの脅威を感じ、自由や人権が奪われ、残虐な暴力で正当に選ばれた政府が倒されそうとしていることに同情と支援の声も強まった。イギリスでは法律で外国の軍隊に加わることが禁止されていたので、個人の資格でスペインに密航して義勇兵として政府側の民兵に加わるものも多くなった。彼らは国際義勇兵や医療部隊として国別または言語別に組織された。イギリス人の「トム=マン百人隊」、フランス人とベルギー人の「パリ大隊」、ドイツ人の「テールマン大隊」などであった。その他、アメリカ人、イタリア人、ユーゴスラヴィア人、ハンガリー人、カナダ人などの国際義勇軍部隊が編成された。それらの総数は正確な数字はわからなが、55カ国、約4万名に及んでいた。なお、ドイツ・イタリアは正規軍をフランコ反乱軍支援のためスペインに送ったが、それも義勇兵と称していた。またごく少数であったが、イギリスやフランスからもフランコ側に参戦した義勇兵もいた。
1936年11月8日に国際義勇兵は市民の熱狂的な歓呼に迎えられマドリードに姿を現した。国際義勇兵の活動は、フランスのアンドレ=マルローの『希望』、アメリカのヘミングウェーの『誰がために鐘は鳴る』などの文学作品、イギリスのジョージ=オーウェルの『カタロニア賛歌』などのルポルタージュで描かれている。
Episode 反ベルリン・オリンピック
1936年はナチス=ドイツの威信をかけたベルリン=オリンピックが開催された年であった。ファシズムに反対する労働者は、ナチス・オリンピックに対抗して、7月20日からバルセロナで「労働者オリンピアード」を開催しようと集まった。その開催予定日に内戦が始まったため、開催できなかったが、その参加者でそのままスペインにとどまって義勇兵となった人も少なくない。女流画家のフェリシア=ブラウンもその一人で、8月25日にスペイン東北部のアラゴン戦線で頭を射貫かれ、イギリス人義勇兵の最初の戦死者となった。<川成洋『青春のスペイン戦争 ―ケンブリッジ大学の義勇兵たち』1985 中公新書 p.14>コミンテルンの国際旅団
ソ連はイギリス・フランスの不干渉政策に反対し、地中海経由で航空機や戦車、兵員をスペインに送り政府軍を支援した。またコミンテルンは各国の共産党に指示して義勇兵を募り、資金と旅券を準備してスペインに送った。1936年10月22日にスペインでは「国際旅団」が創設され、国際義勇軍部隊もそれに吸収されていった。国際旅団にはフランス人1万、ドイツ人5千、イタリア人3350、アメリカ人2800、イギリス人2千、その他カナダ、ユーゴスラヴィア、ハンガリー、スカンディナヴィア諸国などが加わった。1936年11月8日に国際義勇兵は市民の熱狂的な歓呼に迎えられマドリードに姿を現した。国際義勇兵の活動は、フランスのアンドレ=マルローの『希望』、アメリカのヘミングウェーの『誰がために鐘は鳴る』などの文学作品、イギリスのジョージ=オーウェルの『カタロニア賛歌』などのルポルタージュで描かれている。
国際義勇兵となった日本人
スペイン戦争を取材するために朝日新聞特派員として派遣された坂井米夫の報告『ヴァガボンド通信』(後に『動乱のスペイン報告』として出版された)によると、1937年7月のマドリード攻防戦の際、郊外のブルネテでの戦闘で戦死した国際義勇軍の兵士の中に一人の日本人がいた。坂井米夫は彼が所属していたアメリカ人の国際義勇軍リンカン・バタリオン第一中隊の隊長ローア大尉から聞いた話を書き残している。その日本人はジャック=白井といい35,6歳でアメリカでコックをしていたが、義勇兵に志願し、ローアと一緒にスペインに来たという。戦場ではコックとしてもうまい料理をつくっていたが、「俺はコックとしにスペインに来たんじゃないぞ!」と怒って機関銃射手として各地を転戦、だれからも好かれる、子供の好きな男だったという。7月11日午後1時頃、ブルネテ戦線で空爆に耐えながら塹壕にこもっていたとき、誰かが食物と水を取りに行かなければならなくなった。彼が気軽に「俺が行こう」と立ち上がったとたん敵の狙撃兵に頚部を撃たれて即死した。それ以上のジャック白井についてはほとんどわかっていない。<坂井米夫著/川成洋編『動乱のスペイン報告 ヴァガボンド通信』1980 彩流社 p.165-166>