泰緬鉄道
第二次世界大戦中に日本軍がタイ・ビルマ国境に建設した鉄道。イギリス兵捕虜の強制的労働で建設された。
たいめんてつどう。第二次世界大戦・太平洋戦争中に、日本軍がビルマ・インド侵攻作戦のために建設した、タイとビルマを結ぶ鉄道。泰はタイ、緬はビルマをあらわす。1941年12月、日本軍はタイに侵攻した上でピブン政権とは同盟を結んで協力を取りつけ、さらにビルマ方面を目指して、鉄道を建設することにした。
この泰緬鉄道の建設中に、タイ側の起点の町バーンポーンで1942年12月に、捕虜にタバコを恵んだ僧侶を日本兵が殴打したことから、タイ人と日本軍との間に衝突が発生し、タイ人7~8人と日本人2人が死亡するというバーンポーン事件がおこった。タイでは僧侶は高く崇められており、日本軍が仏教を侮辱したとの非難が高まった。日本側は犯人のタイ人の死刑を要求したが、タイ側は関係者を終身刑とした。この事件はタイにおいては日本軍は同盟軍ではなく占領軍として受け止められていたことを示している。<柿崎一郎『物語タイの歴史』2007 中公新書 p.176>
タイ・ビルマを結ぶ鉄道
1942年7月26日から工事開始、驚異的な建設スピードで43年10月に約415kmが開通した。この工事では日本軍が約1万2千、連合国軍捕虜が約6万5千、東南アジア日本軍占領地域からの徴用(実質的な連行)による労務者はマレー方面から8万、インドネシア方面から4万5千、ビルマ方面から18万、タイから数万、合計40万を超すと推定される。ジャングルの中の工事は難航を極め、捕虜の1万5千、労務者の半数が未帰還という大惨事となった。現在はタイ国鉄がその3分の1の路線で1日3往復の運行をしているという。「死の鉄道」
泰緬鉄道の建設では多数の連合国軍捕虜やアジア人労務者が動員され、多くの犠牲を出したことから「死の鉄道」と呼ばれた。日本軍は泰緬鉄道の他、1943年にビルマへの輸送ルートとしてマレー半島のクラ地峡にも軍用鉄道を敷設した。この泰緬鉄道の建設中に、タイ側の起点の町バーンポーンで1942年12月に、捕虜にタバコを恵んだ僧侶を日本兵が殴打したことから、タイ人と日本軍との間に衝突が発生し、タイ人7~8人と日本人2人が死亡するというバーンポーン事件がおこった。タイでは僧侶は高く崇められており、日本軍が仏教を侮辱したとの非難が高まった。日本側は犯人のタイ人の死刑を要求したが、タイ側は関係者を終身刑とした。この事件はタイにおいては日本軍は同盟軍ではなく占領軍として受け止められていたことを示している。<柿崎一郎『物語タイの歴史』2007 中公新書 p.176>
Episode 『戦場にかける橋』
1954年にイギリスのデビット=リーンが監督、ウィリアム=ホールデン、アレック=ギネス、ジャック=ホーキンス、早川雪州らが出演した映画『戦場にかける橋』は、1943年のビルマでの日本軍がイギリス軍捕虜を泰緬鉄道建設に動員したことを描いている。捕虜となったイギリス軍将官(アレック=ギネス)は捕虜を鉄道建設の労務に動員することを国際法違反であると抗議するが、日本軍捕虜収容所長(早川雪州)はそれを無視して工事を急ぐ。所長の武士道精神に対抗してイギリス将兵の力を示すために、イギリス兵は結束して鉄道建設にあたり、完成にこぎ着ける。しかし捕虜収容所を脱走したアメリカ兵(ウィリアム=ホールデン)が密かにその橋を爆破しようと近づいてくる。このクワイ川という小さな河に架けられた、日本とイギリスの奇妙な合作による橋は、完成式典の日に・・・・・。戦争の愚かしさを示すラストシーンが悲しい。アカデミー賞作品賞、主演賞、監督賞をとり、主題歌クワイ川マーチも広く知られることとなった映画である。