ビルマ/ミャンマー
東南アジアの西端に位置し、イラワディ川の流域にさまざまな民族が興亡した。10世紀にチベット系のパガン朝が成立、上座部仏教を保護した。13世紀に元の侵略を受けて滅び、その後ペグー朝、トゥングー朝が続き、18世紀のコンバウン朝はタイやインドに進出してビルマ最盛期となった。19世紀後半にインドに続いてイギリスの植民地とされ、1930年代から独立運動が起こった。第二次大戦中の日本の軍政を経て、1948年に独立した。しかし、60年代から軍部が台頭し、一時は社会主義路線をとる軍事政権が現れた。80年代以降はアウンサンスーチーを指導者とした民主化運動が起きたが、弾圧が続いた。軍事政権は1989年には国号の国際表記をビルマからミャンマーに変更した。その後も民主化運動が断続的に起こり、2010年に自宅軟禁を解かれたアウンサンスーチーは政界に復帰、2016年3月に国家最高顧問として実質的な政権の座についた。しかし2021年2月、軍のクーデタによってまたも逮捕された。
ミャンマー地図 Yahoo Mapに加筆
- (1)ビルマ人の移住
- (2)ビルマの諸国家
- (3)イギリス植民地化
- (4)日本による軍政
- (5)ビルマ独立と混迷
- (6) ミャンマーに国号変更
- ・2021/2/1 国軍によるクーデタ
(1)ビルマ人の移住
現在は国号がミャンマーとなったビルマの地は、東南アジア大陸部(インドシナ半島)の西端に位置し、北は中国、西はインド、東はタイに接する。国土の中心を南北にイラワディ川が流れ、その流域は豊かな農耕地帯だが、山岳部にはジャングルが広がっている。ビルマ人がこの地に移住する以前には、イラワディ川の中流にはピュー、下流にはモン人が先住民として文化を形成していた。ビルマ人はもとチベットから中国甘粛省のあたりに居住し、南詔に属していたらしいが、8、9世紀ごろから南下し、次第に国家を形成させた。その中で、仏教を信仰し、ビルマ文字をもつようになった。
パガン朝
11世紀、ビルマ人が、ピュー人やモン人を追い、統一国家パガン朝(1044~1299年)を建国した。アノーヤター王は周辺各地を合わせて統合し、イラワディ川流域の穀倉地帯を支配して安定した国力ともち、さらに下ビルマの門人から学んだ上座部仏教を篤く保護し、仏教寺院を建設した。その後もパガン朝は仏教国として続き、多くの寺院を建設したので、建寺王朝とも言われている。上座部仏教はこの時期までにビルマの民衆にも定着した。しかし、仏教寺院建設にかかる費用は民衆生活を圧迫するようになり、「仏寺成って国滅ぶ」といわれるようになる。(2)ビルマの諸国家
13世紀、パガン朝が元に侵攻されて衰えた後、モン人のペグー朝の支配を受ける。ビルマ人は16世紀にタウングー朝で復興、18世紀のコンバウン朝が有力となった。
元の来襲
1287年に元の遠征活動がこの地に及び、都パガンが占領されて、事実上、パガンは滅亡した。その後、パガンの王は元朝に従属するかたちをとって統治をゆるされたが、すでに全土を支配する力はなく、ビルマ人以外に上ビルマにシャン人、下ビルマにはモン人らの勢力が強まり、ビルマは三分される形になった。パガン朝はそのシャン人によって滅ぼされ、シャン人はモンゴル軍を撃退して上ビルマに自立した。下ビルマのモン人はイラワディ川下流域のペグーを中心にペグー朝を建てて独立した。ペグー朝
ペグー朝(1287年~1539年)はイラワディ川下流域にモン人がつくった国家。パガン朝に続いて上座部仏教を保護し、都のペグー(現在のバゴー)は河港都市としても栄えた。しかし、この時期はパガンにはシャン人が、タウングーにはビルマ人がそれぞれ分立しており、ビルマは分裂期となった。タウングー朝
シッタウン川上流のタウングーを拠点としたビルマ人が14世紀、次第に有力となり、1531年にタウングー朝(トゥングー朝、1531~1752年)を創建し、1538年にはイラワディ川下流のペグーを陥れてペグー朝を滅ぼし、1544年には上ビルマも平定してパガンで即位、パガン朝に続くビルマの統一を再現した。タウングー朝はタイやラオスに進出、ビルマ領を広げた。しかし、国内はビルマ人に対するモン人の反発も強く、安定しなかった。16世紀にはイギリス、オランダが進出し通商を求めたが、タウングー朝は鎖国政策をとり、都もペグーから内陸のアヴァに移した。ビルマ人の去った下ビルマではモン人が反乱を起こし、1752年にペグーを占領したため、タウングー朝は滅亡した。コンバウン朝
18世紀に入り、イラワディ川上流(上ビルマ)のビルマ人の中から現れたアラウンパヤーが1752年にコンバウン朝(アラウンパヤー朝、1752~1885年)を建て、1757年にモン人を制圧して、ビルマ全土の統一に成功した。コンバウン朝は、パガン朝、タウングー朝に続く、三度目のビルマ統一王朝となった。コンバウン朝は1767年には東隣のタイに侵攻し、アユタヤ朝を滅ぼしており、一方、1769年には乾隆帝が派遣した清軍を撃退(清朝側ではこの時、雲南を獲得しビルマに朝貢させているので遠征は成功ととらえられている)し、強大な勢力を持った。またインドとの国境地帯であるマニプール(その中心地がインパール)にも進出した。ビルマのインド進出は、既に始まっていたイギリスのインド植民地化の動きと衝突することとなり、19世紀にビルマはイギリス帝国の軍事力の前に植民地化の危機にさらされ、1885年~86年の第3次ビルマ戦争の結果、コンバウン朝は滅亡した。
ビルマ(3) イギリス植民地化
3次に渡るイギリスとの戦争に敗れ、1886年にイギリス植民地インドに編入される。1930年代に独立運動を展開。1942年に日本軍の侵攻を受け、軍政がしかれる。
イギリス=ビルマ戦争
ビルマの西のインドのベンガル地方では1765年にイギリス東インド会社が徴税権を獲得、植民地化を進めていた。イギリスの勢力とマニプール進出をすすめるビルマの勢力はついに1824年に衝突した。これが、以後3次に渡るイギリス=ビルマ戦争の始まりとなる。第1次イギリス=ビルマ戦争(1824~1826)では、ビルマ軍は近代兵器で武装したセポイ兵を主力とするイギリス軍に敗れ、ビルマはアッサムやマニプールなどに対する権利を放棄、領土割譲と賠償金を義務づけられた。第2次イギリス=ビルマ戦争(1851)はラングーン港でのイギリス船の関税支払い問題からイギリス軍が一方的に軍事行動を開始して、ラングーンをはじめとする下ビルマ一帯を占領、イギリス領に編入した。コンバウン朝ビルマは、イギリスと対抗するためにフランスと結ぼうとしたが、その動きを抑えるように1885年、イギリスは軍事行動を開始、この第3次イギリス=ビルマ戦争で敗北して滅亡した。イギリスの植民地となる
19世紀後半、3次にわたるイギリス=ビルマ戦争に敗北し、1885年にビルマ王国(コンバウン朝)は滅亡し、1886年1月1日にイギリス領インドに編入されインド帝国の一つの州とされた。イギリス領としてはインド総督の配下に属する弁務官が統治することとなった。1897年からは副総督が統治する自治州とされた。イギリスはビルマ支配の中心を南部の海岸地方に置き、輸出用の米の生産地帯とした。反英闘争
イギリスの植民地支配を受けていたビルマでは1930年に、反イギリス組織「我らビルマ人協会」(タキン党)が結成された。このような民族運動の高揚を受け、1935年、イギリスは新インド統治法を制定すると同時にビルマをインドと分離し、その直轄植民地としてビルマ総督が置かれ準自治州とされた。これをビルマ統治法という。タキン党はアウンサンらの指導により、1938年から激しい反英独立闘争を展開していったが、40年、イギリス当局によって幹部が逮捕され、組織は壊滅した。
ビルマを脱出したアウンサンらは日本に亡命、日本軍の協力を得て、軍事訓練を受け、ひそかにビルマに戻り、ビルマ独立軍の母体となった。
ビルマ(4) 日本の軍政
日本軍の独立運動支援
日中戦争で重慶の蒋介石政権を降伏に追い込むことが出来ずにいた日本軍は、援蔣ルートであるビルマ=ルートの攪乱を狙い、特務機関(南機関)がビルマ独立闘争の支援に乗り出した。日本軍の援助で1941年にタイのバンコクでアウンサン、ネウィンらがビルマ独立義勇軍(BIA)を創設した。日本軍の侵攻と軍政
太平洋戦争が開始されるとフランス領インドシナ南部を抑えていた日本軍は、1942年、ビルマに侵攻し、イギリス軍およびイギリス領インド軍と戦い、1942年3月8日にはラングーンを占領、5月までには全土を制圧した。日本のビルマ占領は、援蔣ルートのビルマ=ルートを完全に遮断することと、イギリス植民地支配の最大の拠点であるインドに侵攻する足場とするためであった。日本はビルマに対して軍政を布き、イギリスに捕らえられていた独立運動指導者バーモーを解放して首班に迎え親日政府を樹立した。独立義勇軍のアウンサン将軍は、表面は日本軍に協力しながら地下活動の共産党などと連絡を取り、密かに抗日運動を指導した。
1943年、日本の東条内閣は大東亜共栄圏の一国としてビルマの独立を認めたが、アウンサンらは国家主権のない名目上の独立に反発、独立義勇軍も参加して反ファシスト人民自由連盟(AFPFL、アウンサン総裁)を結成、45年3月から抗日武装闘争を開始した。
インパール作戦 イギリス軍・インド軍・連合軍は、日本軍のインド侵攻を阻止し、ビルマを奪還するため、反撃を試みようとした。それに対して日本軍は、インドに対する働きかけとともに、侵攻作戦を進め、1944年3月、第15軍がインパールをめざした。インパールはインドの北東、ビルマとの国境地帯であるアッサム地方マニプル盆地の都市で、インド=ビルマ間の要衝にあたっていた。日本軍にはインド独立をめざすチャンドラ=ボースのインド国民軍も参加した。しかしこのインパール作戦は、熱帯雨林という過酷な自然環境の中での戦いとなり、地理的な情報を欠く日本軍は指揮命令系統が混乱し、日本軍は7万5千人の死傷者を出すという悲惨な敗北に終わった。
日本軍のビルマ侵攻は、そのインド侵入を阻止しようとするイギリス軍のベンガル地方での焦土作戦によって、1943~44年にベンガル飢饉がおこり、350万とも言われる犠牲者を出している。
1945年8月、日本の降伏によって、ビルマでの軍政は終わった。ただちにアウンサンらは、イギリスからの独立をめざす闘争に入った。
ビルマ(5) 独立と混迷
1948年1月、ビルマ連邦として独立を達成。民族対立から内戦が続き、60年代に軍の「ビルマ式社会主義」による軍政が布かれた。
イギリス連邦に加わらず独立
日本軍敗退後、イギリスの植民地支配(民政)が復活すると、再びイギリスからの独立闘争を展開し、1947年にアウンサンとイギリスのアトリー内閣の間で独立協定に調印、国内の諸勢力の統合を進め、1948年1月、イギリス連邦に加わらない形でビルマ連邦として独立を達成した。アウンサンはその直前の47年12月に、政治的に対立していたグループによって暗殺されていた。軍部独裁への移行
ビルマ連邦は議会制民主主義の国家として独立したが、少数民族カレン族やシャン族の不満、各勢力の対立などから内乱が絶えず、安定しなかった。その内乱を鎮圧し、国家統一を実現した国軍(アウンサンらの創設したビルマ独立義勇軍の後身)が次第に政治面でも発言権を強めていった。1962年、軍部クーデターによってウー・ヌ首相が退陣、国軍のネウィン将軍が権力を握って軍事政権を建て議会制民主主義を否定した。政党はビルマ社会主義計画党(BSPP)しか許されず、国家機構の役職はすべて軍人か退役軍人によって占められた。国号は74年からビルマ連邦社会主義共和国とされたが、マルクス・レーニン主義ではなく、「ビルマ式社会主義」を標榜した。経済、教育なども国営とされ、国家への奉仕が強要された。その紙幣廃止令などの強引な政策によって経済は混乱、貧困化が進行した。
分離独立運動の継続
ビルマは国民の68%はビルマ人であるが、それ以外の主要民族が8つ、政府公認の少数民族が135も存在する多民族国家である。特にタイなどとの国境山岳地帯にはシャン人、カチン人、カレン人などが1948年のビルマ独立直後から分離独立運動が起こり、その後も現在まで続いている。Episode 黄金の三角地帯の麻薬ビジネス
ビルマ(現在のミャンマー)での分離独立運動の一つとして、東部のシャン州がある。シャン州は一部がタイとラオスに及ぶ「黄金の三角地帯」と呼ばれる、東南アジア最大の麻薬生産地帯に属している。(引用)中国の国共内戦で敗れ、タイ北部に逃れた国民党軍兵士の子として生まれたクン・サは、シャン人とモン人の分離独立をめざしてモン・タイ軍を結成して武力闘争をおこない、その過程で黄金の三角地帯の麻薬ビジネスを支配した。クン・サは一時期、ミャンマー政府により逮捕・投獄されたが、出獄後は麻薬ビジネスを拡大し、麻薬取り締まりを強化したアメリカ政府から国際指名手配を受けると、タイ北部からミャンマーのシャン州に逃げこみ、シャン州に自分の王国を築くことを考えたので、分離独立運動と麻薬資金が結合して、ミャンマーの軍や政府は容易に鎮圧できなかった。しかし、クン・サは1996年に突如ミャンマー政府と停戦に合意してヤンゴンで投降し、その後、麻薬資金を合法ビジネスに投入して、ミャンマーとタイで巨大ビジネス網を創り上げたが、2007年にヤンゴンで死んだ。<岩崎育夫『入門東南アジア近現代史』2017 講談社現代新書 p.132-133>ミャンマーの麻薬ビジネスと国軍の関係は現在もうわさされており、ミャンマー情勢を不透明にしている要因とも見られている。
ビルマ(6) ミャンマーに国号変更
1988年、民主化運動起きるも、権力を掌握した軍によって弾圧され、指導者アウンサンスーチーは自宅軟禁状態に置かれた。89年には国号をミャンマーに変更した。2007年にも民主化運動が起こり、アウンサンスーチーは10年にが開放され、翌年に民政移管、15年から政権についた。ロヒンギャ問題などで苦悩が続く中、21年2月の軍クーデタによって再び軟禁された。
アウンサンスーチーを自宅軟禁
ビルマ軍事政権支配下の閉塞状況を打破しようと、学生を中心として民主化闘争が始まった。1988年、ネウィン将軍は退陣、ビルマ社会主義計画党(BSPP)も解散し、さらに1988年9月8日、民主化デモは最大の盛り上がりをみせゼネストとデモが全土に及んだ。民主化運動をすすめたアウンサンスーチーは国民民主連盟(NLD)を結成した。それに対して国軍は武力を行使し、発砲して民主化運動を弾圧、18日に軍部独裁政権を樹立、総参謀長ソンマウン大将を議長とする国家法秩序回復評議会(SLORC)が権力を奪取した。翌1989年6月18日、軍事政権は英語国称をミャンマー連邦に、首都名をラングーンからヤンゴンに変更した。さらに同1989年7月20日に民主化運動の指導者アウンサンスーチーを自宅軟禁した。
ミャンマーへの国号変更
ミャンマーの国旗
民主化運動の苦悩
1990年に総選挙が行われ、国民民主連盟(NLD)が圧勝したが、軍政は政権の移譲を拒否、アウンサンスーチーの軟禁も続いた。そのアウンサンスーチーに対し翌91年にノーベル平和賞が授与され、国際的な関心が強まったが、彼女が授賞式に参加することは出来なかった。その後、ミャンマー軍事政権は社会主義体制を放棄し、市場経済化や外資導入を図っており、経済成長をはかるべく、1997年には東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟しているが、基本的人権や民主政治は否定され軍政が続いた。2003年、軍政はようやく「民政移管計画」を発表したが、事態は進展しなかった。
首都ネピドーへの移転 2006年、ミャンマーの軍事政権は、首都機能を従来のヤンゴンから、新首都ネピドーへの移転を強行した。ネピドー(ネーピードーとも表記)は「王都」を意味する新しい都市名で、荒野の中に急いで造られた。以下は、その翌年3月に、外国人記者団に初めて公開された新首都ネピドーの朝日新聞記者によるレポート「防衛重視の陸の孤島」。
(引用)ヤンゴンから遷都して一年余り、人の気配がなかった荒野に姿を現した新首都は、建物が点在する「陸の孤島」のようだった。ヤンゴンから、凸凹の激しいヤンゴン・マンダレー開道を車で7時間。4万人の官僚が移住したという。「王都」を意味するネピドーは、赤土と雑草に覆われた山林の中にあった。ヤンゴンと結ぶ空の便は日に1~2本しかなく、多くの関係者はバスで来る。民主化デモと新憲法 2007年9月にはヤンゴンなどで僧侶を中心とした大規模な民主化デモが発生、日本人ジャーナリストが射殺される事件が起こり、国際的な批判が強まったが、ここでも運動は抑圧された。しかし、軍は2011年に民政に移管することを約束し、新憲法を作成、国民投票で承認された。憲法で民政に移管することが決まったが、軍は議席に一定の数を確保するなどの規定により、実質的な軍の支配を維持しようとした。そのうえで国軍系の連邦団結発展党(USDP)を結成、軍の影響力の保持を図った。
一体は携帯電話が通じない。情報漏れを防ぐため利用を認めていないという。・・・近くに映画館などの娯楽施設は一切なく、ホテルの中以外に、まともなレストランもない。・・・ 遷都の理由について軍事政権は「国の中央に位置し政府機能を高められる」と説明しているが、「群衆の反乱に備えた措置」「政権トップのタン・シュエ国家平和発展評議会議長一家が信じる占星術に従った」などのうわさが流れている。<朝日新聞 2007.3.27 記事>
アウンサンスーチーの解放
2010年の総選挙では国軍系の政党である連邦団結発展党(USDP)が大勝し、民主化運動を進める国民民主連盟(NLD)は、選挙は公正に行われないとしてボイコットした。しかし、ミャンマーの軍事政権に対する国際的な非難と経済封鎖は次第に政権を追いつめ、2010年11月にアウンサンスーチーの自宅軟禁を解除した。2011年に民政に移管、アウンサンスーチーは政治活動を再開し、数度にわたる政権側との交渉を経て立候補、2012年の補選で当選して国会議員となった。2015年11月の総選挙で彼女の率いる国民民主連盟(NLD)が第一党となり、大統領になる可能性があったが、憲法の規定(夫が外国人であるため)によって立候補できず、別な人物が大統領となり、彼女は外務大臣などに就任し、実質的な権力を握ることとなった。2016年にはミャンマー連邦共和国国家顧問兼外相というポストにつき、実質的な国家元首となった。
アウンサンスーチーはこうして復権し、形の上では民主化、非軍政化がはかられたが、依然として憲法の下ミャンマー国軍は大きな発言力を持っており、アウンサンスーチー政権も強権的で非民主的な運営に批判も出た。
ロヒンギャ問題
2017年7月、ビルマ西部のバングラディシュに隣接したアラカン山脈地域(現地ではラカイン州)で、イスラーム教徒少数民族であるロヒンギャの村を、ミャンマー国軍が襲撃して多数の死者が出るという事件がおこった。国連人権委員会はこの大量虐殺をジェノサイド条約違反の恐れがあるとして調査団を派遣した。しかし、ミャンマー政府はイスラーム過激派が活動していることを理由に挙げて暴力を排除したと主張しており、虐殺を見てメテいない。実際にはこの攻撃を避けて多数の使者と共に約60万人と言われるロヒンギャが、隣国のバングラデシュに難民として救済を求め、一挙に国際問題化した。国際世論はアウンサンスーチー政権によるロヒンギャ保護を求めたが、ミャンマー政府の正式見解はロヒンギャを認めず、バングラデシュからの不法移民と見做しており、非難が高まった。背景には長い仏教徒とイスラーム教徒の宗教対立があるとされているが、アウンサンスーチー政権にはミャンマー軍に対する統制がとれていないのではないか、との見方がでた。
2020年総選挙
アウンサンスーチー国家顧問の2期目を認めるかどうかの総選挙が2020年11月、コロナ感染の拡がる中で行われ、与党のNLDが改選議員の8割の396議席を占めて信任を受けた。野党の国軍系USDPは前回を下回る33議席に留まった。しかし憲法で認められている「軍人枠」が166議席あり、その他に安全保障分野の3閣僚を国軍トップが務めるなど軍の影響力はまだ残されている。今後は憲法改正も論議されることになると思われるが、改正には国会の4分の3の賛成が必要であるので困難とみられている。軍は少数民族の反政府活動を理由に改正には応じていない。ミャンマーの少数民族政党は48にのぼり、アウンサンスーチー政権にとって調整にはなおも時間がかかるとみられる。国際的に関心の高いロヒンギャ問題は、ミャンマー国内ではほとんど関心を呼ぶことはない。それは約9割が仏教徒で、彼らの認識はイスラーム教徒であるロヒンギャは外国人というものである。アウンサンスーチー政権もロヒンギャ問題に肩入れすることで国内支持を失いかねない実情があるので、積極的にはなれないでいる。国際世論がロヒンギャ問題でミャンマー政権を批判することでミャンマー国内が再び混乱する恐れがあるとも指摘されている。<朝日新聞 2020/11/18>NewS 2021年 軍部クーデタ
2021年2月1日、ミャンマー国軍は「軍が国家の権力を掌握した」と宣言し、アウンサンスーチー国家顧問・ウィンミン大統領らを拘束したと発表した。国軍は昨年11月の総選挙で国民民主連盟(NLD)が圧勝し、アウンサンスーチー政権が信任されたことで、国軍が警戒する憲法改正などの民主化が進むことを恐れ、クーデタを決行したものと思われる。権力を掌握した国軍のミンアウンフライン最高司令官は政権側が不正選挙を主導したと非難し、クーデタを正当化、一年間の非常事態宣言を出して、この間に選挙のやり直しをすると言っている。アウンサンスーチーと政権幹部は自宅軟禁下に置かれ、政治活動の自由を奪われた。また軍はインターネットを遮断し、国民がSNSなどで連絡を取り合い、抗議行動を行うことに誓約をかけてた。これによってミャンマーは1962年から2011年まで続いた軍政に戻り、民主化は大きく後退することが懸念されている。しかし、ただちに国内でも、国外でも抗議の声が拡がっており、事態は流動的になっている<2021/2/8 記> → 毎日新聞 ネットニュース 2021/2/1
ミャンマー国軍によるクーデタに対する抗議活動は連日激しさを増し、国軍による発砲での死者も増えるという状況の中、2月27日には国連総会の非公式会合でミャンマーの国連大使が軍を非難する演説を行い、軍のにぎる政府によって解任されるという事態となった。軍非難の声を上げたのは国連大使チョーモートゥン氏で、「兄弟姉妹たち」に闘いを続けるようビルマ語で呼び掛け、「この革命に勝たねばならない」と述べて軍事政権への抵抗のシンボルとなっている3本指を掲げるポーズを取った。それにたいしミャンマー国営放送は大使は国家の命令に従わず、国を裏切った、として解任したと発表した。<2021/3/5 記> → AFPbb ネットニュース 2021/2/28