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広島・長崎

1945年8月6日、9日、アメリカ軍が相次いで原子爆弾を投下した。被爆後5年間で両市併せて約34万の人が犠牲となった。日本は8月15日にポツダム宣言受諾を発表し、第二次世界大戦が終結した。

 太平洋戦争の末期、アメリカ大統領トルーマンは、日本に対する原子爆弾の使用を命令した。1945年8月6日に広島に原子爆弾が投下され、ついで同年8月9日に長崎に投下された。人類史上最悪の大量殺害兵器は、広島に投下されたのはウラン濃縮型原爆でリトルボーイと名づけられ、長崎にはプルトニウム精製型でファットボーイと名づけられてていた。この原爆の爆発による衝撃波、熱波、さらに建物の崩壊によって、1年以内の死亡者は広島で11,8661名、長崎で7,3884名に上った。5年間後までの原爆による死亡者は、広島で約20万名、長崎で約14万名に及んでいる。さらに現在でも原爆後遺症で苦しんでいる人が多数存在している。

戦略爆撃としての原爆

 アメリカは原子爆弾の開発を1842年6月に決定し、「マンハッタン計画」と名づけて1942年8月13日に開発に着手した。それはドイツ側にも原子爆弾開発の情報があったからであった。しかし、完成前の1945年5月始めにドイツは降伏した。原爆を使用する相手は日本だけが残されるなか、日本に対する無条件降伏を勧告したポツダム宣言を発表した1945年7月26の数日前に、トルーマンのもとに原子爆弾の完成の報告がもたらされた。ポツダム会談は8月2日まで続き、終了した。すでに2月のヤルタ会談で、ソ連が8月に対日宣戦布告することが決まっていたので、トルーマンは日本の無条件降伏の前に原爆を使用することに踏み切った。その結果、原爆は完成からわずか3週間もたたないうちに使用されることになったのだった。
 このように原爆の使用は、敵の軍事拠点を攻撃するといった単純な戦術上の判断で行われたのではなく、公式的には無条件降伏に応じない日本に対し、その戦意を喪失させるためのもので、それによって戦争を終わらせ、本土決戦になった場合のアメリカ兵の損失を防ぐためであるというものであった。このような、交戦相手国の戦意の喪失をねらい、一般市民に対する無差別爆撃を大規模に行うことを戦略爆撃といい、ヨーロッパ戦線でもイギリス空軍はドイツに対すて45年2月にドレスデン空襲を行い、日本軍は中国に対して重慶爆撃を行っている。米軍による東京大空襲も戦略爆撃である。広島・長崎への原爆投下もそのようなねらいであり、そこに1発の爆弾で都市全体を破壊するという大量破壊兵器を最初に使用した究極の戦略爆撃であった。
 はたして原爆を使用しなければ日本が降伏しなかったかどうかは分からない。日本の権力者は無条件降伏受諾に傾いていたが、最後に「国体護持」つまり天皇制維持だけをなんとか担保したいと粘ろうとしていたらしい。しかし、連合国側はすでにソ連が8月に対日参戦するっことが予定されていた。仮に7月中に日本が降伏していればアメリカは原爆を使用する口実を失っていたであろう。日本が降伏の決断を引き延ばしている間に、ソ連参戦に先駆けて原爆を使用するけっていをしたのであり、それが8月6日だった。 → 日本の無条件降伏を参照
 いずれにしろ、アメリカは現在に至るまで、公式には原爆の使用は日本を降伏させ、これ以上戦争の犠牲を増やさないようにするためにやむを得なかった、という見解をとり続けており、謝罪はない。
 → 戦後の核兵器廃絶運動
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