核兵器廃絶運動
1950年代から高揚した核実験禁止、核兵器廃絶をめざす国際的運動。冷戦下の米ソの核実験にくわえ、英仏さらに中国が核武装に踏み切ったことで核戦争の脅威が広がり、反核運動も活発化した。運動は国連など国際機関でも取り組まれたが、科学者や市民の運動としてもひろがり、現在も続けられている。またアメリカのスリーマイル島、ソ連のチェルノブイリ、日本の福島原発などの原子力発電所での事故から、原子力そのものへの不信も高まっている。2021年1月22日、核兵器禁止条約が発効し、新たな段階を迎えた。
第二次世界大戦後、広島・長崎の惨状が広く知られるようになり、原子爆弾が使用され、核兵器が大量殺戮兵器として出現したことを人類絶滅にむかう危機ととらえて、その廃絶を求める声が国際的に起こってきた。国際連合は結成時には核戦争を想定していなかったので、憲章ではふれていないが、1946年1月の国際連合総会の決議第1号は国連原子力委員会の設置と、核兵器および大量破壊が可能なすべての兵器の廃絶を目指す事を決議した。「ノーモア・ヒロシマ」の声は広がり、1950年には平和擁護世界大会委員会がストックホルム・アピールを発表し、核兵器の廃絶を訴えた。
パグウォッシュ会議 さらにその宣言を継承した世界の科学者は1957年7月11日にパグウォッシュ会議を開催、核廃絶をめざす声明を発表した。同年、イギリスでは核軍縮キャンペーン(CND)が始まり、翌年から原子力研究所のあるイングランド南部のオルダーマストンを目的地とした行進がはじまった(イギリスの核実験)。
ゲッティンゲン宣言 また同1957年4月12日には、西ドイツの物理学者18人が、西ドイツの核武装計画に反対するゲッティンゲン宣言を発表した。これは1955年に主権を回復し、再軍備を認められ、さらにNATOに加盟するなかで、アデナウアー政権による核武装計画が持ち上がったことに対し、核武装に反対し、一切の核開発研究を行わないことを宣言したもので、彼らは「ゲッティンゲンの18人」といわれた。その中には1944年のノーベル化学賞受賞者で原子核分裂を発見したオットー=ハーン、1954年のノーベル物理学賞受賞者マックス=ボルン、物理学・哲学のカール=フリードリヒ=フォン=ヴァイツゼッカー(後のドイツ大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーの兄)などが含まれていた。彼らを「ゲッティンゲンの18人」というのは、120年前にハノーファー王国で起こったゲッティンゲン七教授事件の「ゲッティンゲンの7人」に準(なぞら)えている。
また1962年のキューバ危機は核戦争の勃発を回避せざるを得ないという現実を米ソ首脳ともに感じさせた。そのような中で国連主導で核兵器開発制限が強まることをおそれた米ソは、イギリスをさそい、国連とは別枠で1963年に部分的核実験停止条約を締結した。これによって部分的ではあれ初めて核実験に歯止めがかけられることとなった。
この条約は、人道的な立場からの「核なき世界」を目指し、1996年から条約案作成が始まった。日本の被爆者の訴えも大きな力となり、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)が運動を推進した。ICAN は2017年10月にノーベル平和賞を受賞した。条約のポイントは、核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用、さらに威嚇としての使用などを禁止することに法的拘束力を持ち、核兵器に関して総合的に廃絶を目指していることである。なお、原子力の平和利用については対象としていない。
2017年7月7日の国連、核兵器禁止条約交渉会議で122票で可決された。その際、核兵器保有国であるアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国、及び開発を表明しているインド、パキスタン、北朝鮮は会議に不参加の態度で反対を表明した。また、事実上アメリカの核の傘の下にある日本、韓国、オーストラリアとNATO諸国(ドイツ、カナダなど)も不参加、オランダは参加して反対した。核保有国、および日本を含む反対した側の主張は核拡散防止条約(NPT)によって拡散を防止することで核戦争は防止され、また核保有による抑止力が戦争防止に必要であるという主張である。
日本政府は、人道的立場からは核兵器に反対であるが、北朝鮮の核兵器開発、使用の脅威がある中でアメリカの核兵器によって守られている現実という安全保障の理由から、ただちに核兵器を禁止することは安全保障上認められないと説明している<外務省ホームページ>。
日本は唯一の戦争での核兵器による被害を受けた国であり、被爆者が存在することから、核兵器禁止条約への参加を求める声が内外に強い。
日本被団協は1956年に結成され、国や自治体に被爆者の救援施策の拡充をもとめるとともに、国連軍縮特別総会や核拡散防止条約(NPT)再検討会議などの国際会議に代表を派遣し、被爆体験の証言や原爆展の開催、署名活動を通じ、世界に向けて核兵器の廃絶、核実験禁止を訴えている。
2022年2月に始まったロシアのウクライナ侵攻、2023年10からのイスラエルのガザ侵攻(ガザ戦争)が続いている中、平和賞が授与されるのは誰か、注目を集めていたが、日本でもほとんどノーマークだった被団協であったことは驚きをもって迎えられた。この受賞はノーベル委員会がウクライナとカザの戦争での核兵器の使用に強い警戒心を抱いていたことの証となった。今までにも2009年に「核なき世界」を訴えたオバマ大統領、2017年には核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)に平和賞が贈られており、その流れに沿った受賞だったと言える。現実の被爆者の証言が核兵器廃絶にむけて最も力のある訴えであることは間違いないが、被爆者の高齢化が進み、将来的には直接訴えることができなくなることが想定されるので、時宜を得た授与となった。
なお、日本での平和賞受賞は、50年前の1974年、日本が「非核三原則」を定めたときの佐藤栄作首相であった。しかし現在はその見直しも公然と主張する声もあり、また日本政府はいまだに核兵器禁止条約に加盟しておらず、依然として「核廃絶」よりも「核抑止」というのが日本政府の立場となっている。<2024/10/14記>
第5福竜丸の衝撃
しかし戦後の冷戦体制が進む中で米ソの核兵器開発競争はエスカレートし、アメリカは核実験を本格化させ、1954年3月1日にはビキニ環礁で水素爆弾の実験を行い、現地の漁民と日本のマグロ漁船第5福竜丸乗組員が被爆し、久保山愛吉さんが死ぬという犠牲が出た。核廃絶運動の広がり
日本では東京杉並区の主婦らが始めた署名運動が広がり、世界では翌1955年7月9日に哲学者ラッセルと原子物理学者アインシュタインの二人のラッセル・アインシュタイン宣言が出され大きな反響を呼んだ。パグウォッシュ会議 さらにその宣言を継承した世界の科学者は1957年7月11日にパグウォッシュ会議を開催、核廃絶をめざす声明を発表した。同年、イギリスでは核軍縮キャンペーン(CND)が始まり、翌年から原子力研究所のあるイングランド南部のオルダーマストンを目的地とした行進がはじまった(イギリスの核実験)。
ゲッティンゲン宣言 また同1957年4月12日には、西ドイツの物理学者18人が、西ドイツの核武装計画に反対するゲッティンゲン宣言を発表した。これは1955年に主権を回復し、再軍備を認められ、さらにNATOに加盟するなかで、アデナウアー政権による核武装計画が持ち上がったことに対し、核武装に反対し、一切の核開発研究を行わないことを宣言したもので、彼らは「ゲッティンゲンの18人」といわれた。その中には1944年のノーベル化学賞受賞者で原子核分裂を発見したオットー=ハーン、1954年のノーベル物理学賞受賞者マックス=ボルン、物理学・哲学のカール=フリードリヒ=フォン=ヴァイツゼッカー(後のドイツ大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーの兄)などが含まれていた。彼らを「ゲッティンゲンの18人」というのは、120年前にハノーファー王国で起こったゲッティンゲン七教授事件の「ゲッティンゲンの7人」に準(なぞら)えている。
キューバ危機の衝撃
1961年には国連総会は核兵器使用禁止宣言を採択した。これは、前年のアフリカの年で独立し、あらたに国連に加盟したアフリカ諸国の賛成票がものをいった。また1962年のキューバ危機は核戦争の勃発を回避せざるを得ないという現実を米ソ首脳ともに感じさせた。そのような中で国連主導で核兵器開発制限が強まることをおそれた米ソは、イギリスをさそい、国連とは別枠で1963年に部分的核実験停止条約を締結した。これによって部分的ではあれ初めて核実験に歯止めがかけられることとなった。
核寡占体制へ
米ソ二大国は核抑止論(核戦力の均衡によって核戦争が抑止され平和が維持されるという理屈)により、核独占体制を作ることをねらい、1968年に核拡散防止条約(NPT)を成立させた。米ソ二大国は核独占体制を強めるとともに、ミサイルや中性子爆弾など戦略的な核兵器の開発を競い続けた。一方で60年代にはフランスと中国が核実験に成功、国連安保理五大国が核保有国となった。<以下、核兵器、核軍縮に関する用語説明は前田哲男編『現代の戦争』2002 岩波小辞典を参照した>緊張緩和と新たな拡散
1970年代はデタント(緊張緩和)の時代となって核兵器の制限交渉(SALT)、1980年代にはさらに削減交渉(START)が進展した。しかし米ソの力の均衡という冷戦の終結した1990年代以降は、インド、パキスタン、北朝鮮が核保有を宣言、イスラエル、イランなども開発は否定しておらず、核の地域的な使用が現実的になってきている。1996年に国連で制定された包括的核実験禁止条約(CTBT)もアメリカが批准しておらず、完全な核兵器の廃絶には至っていないのが現状である。核兵器禁止条約の発効
2017年7月、国連総会において核兵器禁止条約 Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons (核廃絶条約、核禁条約などともいう)が採択され、各国の批准が進み、2020年10月に発効に必要な50ヵ国が批准したことによって、2021年1月22日に発効した。この条約は、人道的な立場からの「核なき世界」を目指し、1996年から条約案作成が始まった。日本の被爆者の訴えも大きな力となり、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)が運動を推進した。ICAN は2017年10月にノーベル平和賞を受賞した。条約のポイントは、核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用、さらに威嚇としての使用などを禁止することに法的拘束力を持ち、核兵器に関して総合的に廃絶を目指していることである。なお、原子力の平和利用については対象としていない。
2017年7月7日の国連、核兵器禁止条約交渉会議で122票で可決された。その際、核兵器保有国であるアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国、及び開発を表明しているインド、パキスタン、北朝鮮は会議に不参加の態度で反対を表明した。また、事実上アメリカの核の傘の下にある日本、韓国、オーストラリアとNATO諸国(ドイツ、カナダなど)も不参加、オランダは参加して反対した。核保有国、および日本を含む反対した側の主張は核拡散防止条約(NPT)によって拡散を防止することで核戦争は防止され、また核保有による抑止力が戦争防止に必要であるという主張である。
日本政府は、人道的立場からは核兵器に反対であるが、北朝鮮の核兵器開発、使用の脅威がある中でアメリカの核兵器によって守られている現実という安全保障の理由から、ただちに核兵器を禁止することは安全保障上認められないと説明している<外務省ホームページ>。
日本は唯一の戦争での核兵器による被害を受けた国であり、被爆者が存在することから、核兵器禁止条約への参加を求める声が内外に強い。
NewS 日本被団協にノーベル賞
2024年10月11日、ノルウェーのノーベル委員会は、2024年度のノーベル平和賞を日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に授与すると発表した。受賞理由は「核兵器のない世界の実現に尽力し、核兵器が二度と使われてはならないことを証言を通じて示してきた」としている。<朝日新聞 2024/10/12朝刊>日本被団協は1956年に結成され、国や自治体に被爆者の救援施策の拡充をもとめるとともに、国連軍縮特別総会や核拡散防止条約(NPT)再検討会議などの国際会議に代表を派遣し、被爆体験の証言や原爆展の開催、署名活動を通じ、世界に向けて核兵器の廃絶、核実験禁止を訴えている。
2022年2月に始まったロシアのウクライナ侵攻、2023年10からのイスラエルのガザ侵攻(ガザ戦争)が続いている中、平和賞が授与されるのは誰か、注目を集めていたが、日本でもほとんどノーマークだった被団協であったことは驚きをもって迎えられた。この受賞はノーベル委員会がウクライナとカザの戦争での核兵器の使用に強い警戒心を抱いていたことの証となった。今までにも2009年に「核なき世界」を訴えたオバマ大統領、2017年には核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)に平和賞が贈られており、その流れに沿った受賞だったと言える。現実の被爆者の証言が核兵器廃絶にむけて最も力のある訴えであることは間違いないが、被爆者の高齢化が進み、将来的には直接訴えることができなくなることが想定されるので、時宜を得た授与となった。
なお、日本での平和賞受賞は、50年前の1974年、日本が「非核三原則」を定めたときの佐藤栄作首相であった。しかし現在はその見直しも公然と主張する声もあり、また日本政府はいまだに核兵器禁止条約に加盟しておらず、依然として「核廃絶」よりも「核抑止」というのが日本政府の立場となっている。<2024/10/14記>