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重慶

中国の長江上流、四川省最大の都市。日中戦争中の1937年12月、中国国民政府の首都南京が日本軍の総攻撃を受ける前にここに遷都した(重慶国民政府)。翌年から日本軍は激しい空爆を行ったが蔣介石は援蔣ルートで米英ソの支援を受けて持ちこたえ、1945年、日本の敗北により政府は南京に戻る。

重慶 GoogleMap

重慶は中国の長江上流、三国時代にはに属した。現在も四川省の最大の都市。日中戦争が勃発し国民政府の首都南京に日本軍が迫る中、蔣介石首席は国防最高会議を開催、1937年10月30日、首都を重慶に移すことを決定、11月20日に発表した。国民政府の重慶移転は1937年12月1日に実行した。国民政府は武漢を一時的に戦時首都としていたが、1938年10月に武漢が陥落したので、最終的に重慶に移転したのだった。これ以後、日中戦争の最後まで蔣介石の主導する国民政府は重慶を首都として抗日戦争の拠点とした。蔣介石の重慶国民政府に対しては、援蔣ルートによってアメリカ・イギリス・ソ連からの援助物資が運び込まれ、抗日戦を継続できた。日本軍は1939年5月から数度にわたって激しい重慶爆撃を行ったが、陸上部隊で攻撃することはできなかった。

国民政府の首都重慶移転

 日本軍の南京総攻撃を前にした1937年10月30日、国民政府の蔣介石主席は首都の重慶遷都を内定し、11月20日に宣布した。上海戦で約25万の兵力を失い、南京で徹底抗戦は不可能と判断したためであった。しかし孫文の墳墓(中山陵)があり中華民国の首都である南京を無抵抗で南京をあけ渡すことは、国民に重大な影響を及ぼし、自らの権威の失墜にもつながると考えた蔣介石は、首都を移転した上で日本軍に抵抗することをきめ、唐生智を防衛司令官に任命した。12月1日、蔣介石は南京をでたが、南京で抵抗することによって世界の関心を集め有利な講和条件を引き出そうする必要を考え、防衛司令官唐生智に徹底抗戦を命じた。日本軍の総攻撃は、敵の首魁蔣介石のいない南京に対して行われたのだった。<笠原十九司『南京事件』1997 岩波新書 p.109などによる>

重慶爆撃

1939年春から始まり、特に1940年5月から9月が最も激しく、1941年まで行われた、日本軍による重慶に対する空爆。重慶は蔣介石政権が中国政府の首都としていた。日中戦争の有利な展開をめざす日本軍の戦略爆撃であったが、蔣介石を降伏させることはできず、かえって多数の市民への無差別爆撃は国際的な非難を浴びることとなった。ゲルニカ、ドレスデン、東京などへの空爆とならぶ戦略爆撃の一つ。

 日本軍は国民政府の蔣介石が移った重慶に対し、1939年5月3日から、たびたび戦略的な空爆を行った。その中で、特に激しい空爆が行われたのが、1940年5月18日から9月4日にかけて(つまり太平洋戦争の開始前に)行われた一〇一号作戦であった。
 作戦は陸・海軍共同で行われ、海軍は九六式陸上攻撃機を漢口から、陸軍は九七式重爆撃機を運城kら、重慶とその周辺を目指し、爆撃目標は「戦略施設」に限られ、アメリカ・イギリスなど第三国施設などは除外されていた。しかし、重慶は霧が深く、大体の見当で投弾され、実際は無差別爆撃となった。8月19日の爆撃には完成したばかりの零式艦上戦闘機(いわゆるゼロ戦)が初めて護衛についた。この一連の爆撃によって多数の重慶市民が殺害され、蔣介石の住居もねらい撃ちしたが、蔣介石は難を逃れた。<『図説日中戦争』森山康平著、河出書房新社p.145>

戦略爆撃による市民の犠牲

 日本軍による重慶爆撃では犠牲者は1939年だけで2万8千に及んだ(中国側資料)。この爆撃は、ドイツ軍のゲルニカ爆撃(37年4月)とともに敵の抗戦意欲の低減をねらい、軍事目標だけでなく市街地も無差別に爆撃するという戦略爆撃の始まりを示すものであった。日本軍の錦州爆撃、漢口爆撃、ドイツ軍のロンドン爆撃、アメリカ軍(連合軍)のドレスデン空襲東京大空襲と日本の都市に対する空襲、そして広島・長崎への原子爆弾投下が戦略爆撃であった。

Episode 重慶爆撃の記憶

 2004年7月に開催されたサッカーのアジアカップ国際試合の重慶会場で、日本チームに対して中国人観客から激しいブーイングがあり、勝って引き揚げる日本チームのバスが襲撃されるという事件が起こった。日本人がほとんど忘れていた(あるいは知らなかった)日本軍の重慶爆撃にたいする中国人の感情がなおも厳しいことに気付かされることとなった。日本のマスコミは中国政府が重慶を反日教育の拠点にしているためであると非難する論調が多かったが、まず事実を直視することが大切であろう。
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森山康平
『図説日中戦争』
2000 河出書房新社