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日本の民主化

第二次世界大戦後、軍国主義的、封建的体制は排除され、政治・経済・社会・教育などあらゆる面での民主化が進んだ。

 日本は1945年8月14日、ポツダム宣言受諾を決定して連合国に通知し、翌15日放送で昭和天皇の詔勅が流され国民に告知された。8月30日に連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着、9月2日に東京湾上のアメリカ軍艦ミズーリ艦上で降伏文書に代表(政府代表重光葵、軍代表梅津美治郎)が署名し正式に降伏した。

占領の開始

 日本占領の機関として東京に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が置かれ、占領行政が始まった。形式は連合国軍の占領であるが、実質はマッカーサー以下のアメリカ軍人および文官が主体の占領行政となった。

五大改革指令

 1945年10月4日に、1.婦人解放、2.労働組合の助長、3.教育の自由化・民主化、4.秘密的弾圧機構の廃止、5.経済機構の民主化のいわゆる「5大改革指令」に始まり、以下のような分野で日本の民主化を実現した。その主な内容は次の通りである。
  • 選挙制度の改正:女性参政権がはじめて認められた。
  • 財閥解体:三井、三菱、住友、安田の四大財閥などの解体、過度経済力集中排除法の制定。
  • 農地改革:地主制度の解体と小作農の解放、自作農の創設。
  • 教育改革:教育勅語の廃止。教育基本法の制定。6・3・3制の単線型教育。男女共学。
  • 国家神道の廃止:「神道指令」により神社は宗教法人となる。
 これらの戦後改革の仕上げとして日本国憲法が制定された。

GHQ占領方針の変化

 GHQの日本占領方針は、当初、軍国主義の排除と民主化という面が強く、これはGHQ内の民政局内のニューディール政策を信奉する文民が中心となって推進されたが、東西冷戦が激しくなるに伴い、本国およびGHQ内部に日本を反共産主義というアメリカの先兵として利用しようという動きが強まり、レッドパージ(共産主義者の排除)や2.1ストの中止命令(47年2月)などの労働運動の弾圧を行うようになった。このような占領政策の変化は「逆コース」と言われた。1950年の朝鮮戦争の勃発に伴い、アメリカの反共世界戦略の一員として日本が位置づけようとして警察予備隊の設置という日本の再軍備を指令し、さらに翌1951年にサンフランシスコ講和会議で日本の主権回復を認めるとともに日米安保条約を締結することとなった。日本はソ連や中華人民共和国との講和を後回しに西側諸国との「片面講和」に応じることとなった。

Episode 幻の日本分割占領案

 結果的に日本本土はアメリカ軍の実質的占領下に置かれたが、敗戦直後にはドイツやオーストリアと同じように日本も分割占領しようという案があった。それによると、北海道・東北地方はソ連、関東・信越・東海・北陸・近畿はアメリカ、四国は中国、中国・九州はイギリスに分割され、東京は米・英・中・ソ4国の共同管理、大阪は米中が共同管理する、というものであった。これはアメリカ内部で占領費負担を他の連合国にも負担させるために考えられたものであるが、マッカーサーが反対し、また中国も内戦の再発の恐れがあって余裕がなく、実現しなかった。ソ連はその後アメリカに対し北海道の東半分の占領を要求したがアメリカが拒否、妥協点として歯舞・色丹を含む南千島4島の占領を認めた。こうして日本本土の分割統治は避けられたが、南千島は現在に至るまで事実上占領が続いている。<竹前栄治『GHQ』1983 岩波新書 p.66>
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竹前栄治
『GHQ』
1983 岩波新書