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マッカーサー

アメリカ軍人で、太平洋戦争で連合軍を指揮し、勝利後、日本占領を統括し民主化を主導した。朝鮮戦争では国連軍総司令官となったが、途中でトルーマン大統領と対立し、退任させられる。

マッカーサー 厚木厚着飛行場
厚木飛行場に降り立つ
マッカーサー
 ダグラス=マッカーサー Douglas MacArthur アメリカの陸軍軍人で、第二次大戦中は太平洋戦争での日本軍との戦闘を指揮して日本の無条件降伏を引き出し、1945年8月30日に厚木飛行場に降り立ち、連合国軍最高司令官(SCAP)として横浜のホテルニューグランドに滞在して、日本占領業務に当たることとなった。

連合国軍最高司令官として

 1945年9月2日の東京湾ミズーリ号艦上での日本の降伏文書に署名し、日本の無条件降伏が確定、その後は東京の第一生命ビルの一室で総司令部(GHQ)を率いて、日本占領の指揮に当たり、9月27日は昭和天皇の訪問を受けた。
 マッカーサーは総司令部を統括し、日本国憲法の制定など、日本の民主化をめざす戦後改革の指揮を執った。その日本滞在は1951年4月11まで、二千日におよんだ。

Episode 「アイ・シャル・リターン」

 マッカーサーは第二次世界大戦において、欧州戦線でのアイゼンハウアーと並んで、太平洋戦線での英雄であった。また、戦後の日本の方向性を決定づけた人物としても忘れがたい。太平洋戦争勃発時はアメリカ軍のフィリピン派遣軍司令官であったが、日本軍の攻撃を受けフィリピン占領を許し、"I shall return" の言葉を残してオーストラリアに撤退した。その約束通り、反撃に転じてフィリピンを奪回し、ついに日本を敗北に追い込んだ。

朝鮮戦争

 1950年6月朝鮮戦争が勃発すると、7月、国連軍が派遣されることとなり、マッカーサーがその国連軍最高司令官として総指揮に当たることになった。北朝鮮軍が進撃を続け、南が追い立てられて釜山まで追い詰められると、その挽回を狙って1950年9月15日に、北朝鮮軍の背後に当たる仁川上陸作戦を決行、それによって北朝鮮軍を鴨緑江まで後退させた。1950年10月19日に中国軍が鴨緑江を越えて参戦すると、アメリカ軍・韓国軍は押し戻され一時はソウルを奪われるまでになった。マッカーサーは総力挙げて押し戻し、北緯38度線付近まで回復したところで戦線は膠着した。マッカーサーは事態を解決するため、中国領への爆撃と原爆投下を主張したが、トルーマン大統領と対立し解任された。

朝鮮戦争で原爆使用を主張

 マッカーサーは「1951年4月、北朝鮮の背後にある中ソを攻撃するために、中国大陸での原爆使用をトルーマン大統領に進言した。」しかし、当時の原爆は空中爆発型で、鉄道・トンネル・橋梁などの破壊には適していなかったのでその軍事的効果は小さく、政治的には中国・ソ連との全面戦争の危険が大きいこと、また日本に続いて中国で原爆を使用すれば、アジア人に対してのみ使うという人種偏見ととれれかねないことなどから、トルーマンは原爆使用を許可しなかった。
(引用)トルーマンが人道主義者だからというのではなく、原爆を使用できる条件にはなかったのである。こうして第三次世界大戦の危機は回避されたのであり、まさに危機一髪であった。・・・これに対し、日本人の多くはほっとしたが、同時に天皇より偉いと思われていたマッカーサー元帥を解任できる、もっと上位の人物がアメリカ本土にいることを知って、驚いたものである。1951年4月16日、衆参両議院はマッカーサーに対する感謝決議案を可決、見送りの群衆二〇万人が羽田空港まで沿道を埋め尽くした。帰国後、マッカーサーは米上下院合同会議で退任の演説を行い、「老兵は死なず、消え去るのみ」という有名なことばを残した。<中村政則『戦後史』2005 岩波新書 p.51-52>
 この言葉は古い軍歌の一節だそうである。マッカーサーはその後も反共のシンボル、国民的英雄とされ続けた。

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