印刷 | 通常画面に戻る |

ポツダム協定

1945年8月2日、米英ソ三国首脳のポツダム会談で成立した、ドイツ戦後処理に関する協定。

 1945年7~8月に開催されたポツダム会談の結果、アメリカ(トルーマン大統領)、イギリス(アトリー首相)、ソ連(スターリン書記長)の連合国三国首脳によって取り決められた協定(議定書とも言う)。1945年8月2日に発表された。内容は多岐にわたるが特にドイツの戦後処理に対する条項が重要であり、一般にポツダム協定はこの部分をさす。最も重要な点は、米英ソの三国にフランスを加えた4ヵ国によるドイツ分割占領が決定されたことである。なお、1945年7月26日に発表された、日本に対する「ポツダム宣言」とは別なので注意すること。

ポツダム協定の内容

以下、協定の内容は次の通りであった。
  • 米英仏ソ四国の占領軍最高司令官が構成する管理委員会をベルリンに設け、できうるかぎり画一的に統治される。
  • 占領目的はドイツの完全な非軍事化と非ナチ化であり、ドイツは民主化されなければならない。
  • そのため戦争犯罪人は裁判にかけられ、ナチはいっさいの公職および私企業内の重要な地位から追放され、ナチのすべての法律・制度は廃止される。
  • 当分の間、ドイツ人による中央政府は樹立されず、管理委員会の指揮下に若干の行政省がおかれるにとどまる。
  • 経済的にはドイツは単一の経済単位として取り扱われる。
  • 軍事産業は禁止、戦争関連産業は管理される。・・・経済力の過度な集中は排除される。
  • ドイツ人の生活水準はヨーロッパ諸国の平均生活水準を超えてはならない。
  • 旧東プロイセン北半分は対ドイツ講和条約の締結まではソ連の管理下にある。
  • ドイツとポーランドの国境は将来の対ドイツ講和条約で最終的に決定されるが、それまでは東プロイセン南半分とオーデル・ナイセ線以東の地域はポーランドの管理下に置かれる。
  • 4国はその占領地帯から賠償を取り立て、ソ連は自己の占領地帯から得るもののほか、追加として西側占領地帯から取り立てられるものの25%を受け取ること。
印 刷
印刷画面へ