ドイツ4カ国分割占領
第二次大戦後、ポツタム協定により、ドイツは米・英・仏・ソの四国によって分割占領され共同管理下に置かれることとなった。
第二次世界大戦中、ドイツ降伏前の1945年2月、ヤルタ会談において米・英・ソ三国首脳は、戦後のドイツをフランスを加えた4国で分割管理する基本方針を決定した。5月8日のドイツの無条件降伏後、ベルリンに進駐した4国司令官によって、1945年6月5日「四国宣言」がだされ、具体的なドイツ全域の分割区域と、ベルリンの分割管理が示された。続いて7月から始まったポツダム会談の結果、8月2日にポツダム協定が出されて、完全な非ナチ化、民主化がなされるまで4ヵ国による分割占領によって統治することにした。
「四国宣言」による分割
1945年6月5日、アメリカ(アイゼンハウアー)、イギリス(モントゴメリー)、フランス(タッシニ)、ソ連(ジューコフ)の四国司令官がベルリンで「四国宣言」(またはベルリン宣言)を発表した。そこで次のように表明された。(引用)ドイツは、1937年12月31日に存在した国境のなかで、占領目的のために四つの地区に分割され、四国のそれぞれに以下のように割り当てられる。東部地区はソビエト社会主義共和国連邦へ、北西地区は連合王国(イギリス)へ、南西地区はアメリカ合衆国へ、西部地区はフランスへ……大ベルリン地区は四国のそれぞれの軍隊によって占領される。この地区の行政の共通の指導のために、連合国間機関が設置され、この機関は四国最高司令官から任命された指揮官によって構成されるものとする。<W.マーザー『現代ドイツ史入門』講談社現代新書 1995 p.19>
当初の共同管理構想
四国宣言で示されたことは、ドイツを消滅させることではなく、また分割管理は固定されるものではなく近い将来に一つの国家として主権を回復(当然その領土は縮小されるものとして)するものとされた。主権を回復した上で講和条約を締結できるものと考えられていたので、ドイツの統一性を維持するため、共通の指導を行う機関として四国共同の管理理事会を設置することとした。その方針は8月のポツダム協定でも確認され、連合国共同の管理機関としてベルリンに管理理事会が設置された。共同管理から国家分断へ
しかし終戦前から明らかになった米英陣営とソ連の対立はドイツ問題に持ち込まれ、民主化と自由主義経済を基本とする経済復興をめざす西側と、社会主義化をめざすソ連との理念の違いが次第に表面化した。1948年6月の西側の通貨改革強行を機にソ連がベルリン封鎖に踏み切ったときから管理理事会は機能しなくなり、ドイツの東西分裂が確定した。翌1949年に西側管理地域にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が、ソ連管理地域にドイツ民主共和国(東ドイツ)がそれぞれ成立し、ドイツの東西分断が確定し、その状態が1990年のドイツ統一まで続いた。