オーデル=ナイセ線
第二次世界大戦後のドイツとポーランドの国境設定は連合国首脳会談でポーランド問題として紛糾したが、最終的にポツダム協定で暫定国境としてオーデル川とその支流ナイセ川にそった線として定められた。ポーランド領となった地域から多数のドイツ人が強制的に移住させられた。戦後の西ドイツのブラント首相の東方政策で容認され、ドイツ統一後の1990年に確定した。
オーデル川とその支流ナイセ川を結んだ線のことで、現在のドイツとポーランドの国境にあたる。第二次世界大戦前、1937年にはドイツ帝国はこの線よりも東のポーランド側に大きく食い込んでいた。また、飛び地という形で旧プロイセン領のダンツィヒ(現グダニスク)やケーニヒスベルク(現カリーングラード)周辺もドイツ領であった。ついで独ソ戦が始まり、全ポーランドを占領したナチス=ドイツに対し、ソ連はスターリングラードの戦い以後反撃に移り、徐々に追いつめ、ポーランド領内に進軍した。
しかし大戦後のドイツが東西に分裂したため講和条約は締結されず、オーデル=ナイセ線は東ドイツ政府は認めたものの、東ドイツの存在を認めていない西ドイツ政府は、その国境線も承認しないまま時間が経過することとなった。オーデル=ナイセ線は事実上の東ドイツ・ポーランドの国境として固定化された。
1990年10月3日のドイツ統一に際しても、オーデル・ナイセ線を含むすべてのヨーロッパの現状の国境を尊重することを表明した。国際世論の一部にも統一ドイツが領土の復活を主張するのではないかという懸念があったが、今のところそのような気配はなく(一部ネオナチといわれる右翼にはそのような主張もあるようだが)、オーデル=ナイセ線がドイツ東部国境として安定している。
英ソの駆け引き
それ以来、戦後のポーランド国境をどこに策定するかはポーランド問題といわれ、連合国、特にイギリスのチャーチルとソ連のスターリンとの間の大きな意見の相違点となり、テヘラン会談、ヤルタ会談の主要な取引案件となった。その中で結局両陣営の妥協点となった、ポーランド西部国境がオーデル=ナイセ線であった。なおポーランド東部国境は、ポーランドが1920年のソヴィエト=ポーランド戦争で獲得した西ウクライナや白ロシアをソ連に返還する形となった。その結果、ポーランドの領土は全体が大きく西にぶれることとなった。ポツダム協定で暫定国境
1945年7月のポツダム会談の結果、1945年8月2日に取り決められたポツダム協定でドイツの東部国境はオーデル=ナイセ線とされ、それはドイツとの講和条約が締結されるまでの暫定的なものあった。それによってオーデル=ナイセ線より東側のポーランド領となった地域に居住していた多数のドイツ人は強制的にドイツ領内に移住させられることになった。その数は最終的に1100万人にのぼるとされる。ドイツとポーランドの間の長い係争の地であったシュレジェンもここで全域がポーランド領とされたので、域内のブレスラウ(ポーランド名ヴロツワフ)等の工業都市にいたドイツ人もドイツ領内に移住させられた。しかし大戦後のドイツが東西に分裂したため講和条約は締結されず、オーデル=ナイセ線は東ドイツ政府は認めたものの、東ドイツの存在を認めていない西ドイツ政府は、その国境線も承認しないまま時間が経過することとなった。オーデル=ナイセ線は事実上の東ドイツ・ポーランドの国境として固定化された。
ブラントの東方外交で確定
戦後の西ドイツ政府は当初はこの国境線を認めず、統一後にさらに東に拡大(旧ドイツ領の復活)を実現すべきであるという意見も根強かった。しかし、1970年代の社会民主党ブラント首相は「東方外交」をかかげてソ連・ポーランドとの和解を実現した際、オーデル・ナイセ線を国境として認め、1972年の西ドイツ=ポーランド国交正常化条約でも確認された。1990年10月3日のドイツ統一に際しても、オーデル・ナイセ線を含むすべてのヨーロッパの現状の国境を尊重することを表明した。国際世論の一部にも統一ドイツが領土の復活を主張するのではないかという懸念があったが、今のところそのような気配はなく(一部ネオナチといわれる右翼にはそのような主張もあるようだが)、オーデル=ナイセ線がドイツ東部国境として安定している。