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西ドイツ基本法/ボン基本法

1949年5月に公布された、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の新国家建設を定めた憲法にあたる最高法規。1990年の東西ドイツの統一によって全ドイツの基本法となった。

 西ドイツ基本法はボン基本法とも言い、1949年5月23日に公布された、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の憲法にあたる最高法規。将来的にはドイツ全域に適用されるべきであると考えられ、それまでは最終的な憲法ではないという意味で「基本法」とされた。西側のアメリカ、イギリス、フランス三国の要請を受けて、三国管理下の各州議会が承認して成立した。特徴は以下のようにまとめられる。
  • 大統領は連邦議会と各州議会代表の連邦総会で選ばれる間接選挙。
  • 大統領権限は制限され、首相の権限が強い。(ヴァイマル憲法を反省し、政権の安定を図った)
  • 民主的かつ社会的連邦国家と規定。
  • 連邦主義をとる。(連合国の意図で、プロイセン的中央集権国家は否定された)
 この基本法により1949年9月7日、ボンを暫定首都とするドイツ連邦共和国が成立した。後の1990年に東西ドイツは統一されたが、この「基本法」が旧東ドイツにも適用されるという形をとり、全ドイツの憲法として機能している。

ヴァイマル憲法との比較

 1919年にドイツで生まれたヴァイマル憲法は、世界で最も民主的な、優れた憲法と言われたにもかかわらず、ほとんど疎んじられ、ナチスの台頭によって葬り去られた。それに対して西ドイツ基本法(ボン基本法)は暫定的なものとして作られ、あまり期待もされなかったにもかからず、西ドイツの憲法として存続し、ドイツ統一後も維持されている。このドイツの二つの憲法の違いは何なのだろうか。それについて、現代ドイツの歴史家セバスチャン=ハフナーは、ヴァイマル(ワイマール)憲法が失敗し、ボン基本法が成功した理由を、「楽天家のワイマール憲法、人間不信の基本法」という表現で興味深く説明している。以下はその引用である。
(引用)基本法とワイマール憲法のどこが違うかと問われて、たいていの人はただ肩をすくめて途方にくれるだけである。彼らにとってデモクラシーはデモクラシーであり、違いなど気づかないのである。しかし両者にはそれこそ天と地ほどの違いがあるのだ。もっとも単純で決定的な違いはこうだ。つまりワイマール憲法を構築した人たちは楽天家であり、これに対して、基本法の生みの親たちは悲観主義者だったことである。・・・ワイマール憲法は、国民発案、国民表決を基本とし、大統領を国民投票で選び、国会も容易に解散することが出来た。つまり有権者の理性と責任に対してかぎりない信頼を置いたものだった。
 これに対して基本法の精神は、人間不信に貫かれていた。というのも、基本法の起草者たちはみないわば「大やけどした子供たち」だったからで、彼らは有権者の気分がいかに移ろいやすく、惑わされやすいものであるか、デモクラシーというものが制約のないデモクラシーによっていかにたやすく破滅の道を突き進んでしまうものか、わが身を通してよく分かっていた。だからそのような体験はもう二度とくりかえしたくなかったのである。
 ワイマール憲法というのは、国民が惑わされることのない民主主義者で、分別ある模範的な市民であることを前提につくられていた。基本法は、たとえ惑わされやすく過ちの多い、不完全な人間のもとでも、ちゃんと機能する民主憲法であらんとし、デモクラシーの行き過ぎからデモクラシーを破壊することのないようにと考えてつくられたものだった。・・・
 第二の違いはこうである。つまりワイマール憲法は、ビスマルク憲法を拠り所とし、ある程度の連続性を守ろうとしたことである。そのためワイマール共和国のしくみは、ビスマルク帝国のそれとなんら変わらず、それどころかビスマルク憲法の最大の欠点である、ドイツ帝国とプロイセンの二元主義までもが手付かずのまま残されたのだった。国家の諸機関も本来なら選挙によって民主的な形態に様変わりしなければならないはずなのに、それらはみな旧態依然のままだった。たとえば、皇帝の代わりに大統領が置かれたが、この大統領はいわば、国民投票によって選ばれたカイゼル(皇帝)のようなものだった。いつでも首相を任免でき、通常でも国会を解散することができた。そして非常時の場合は独裁的全権を振るうことさえできたのである。・・・
 これに対して基本法は、連続性というものを意図的に、徹底的に、また極端に排除した。基本法の起草者たちは旧来のドイツの伝統や憲法をいっさい引き継がず、当然ワイマール憲法も継承しなかった。・・・ワイマール憲法の起草者たちのように、世界で一番自由な憲法を作ってやろうなどという野心や競争心など、かれらにまったくなかった。彼らがつくろうとしたのは、ワイマール共和国のようにたやすくひっくり返ってしまわないような、しっかりした民主共和国、いわば民主主義の要塞を築こうとしたのである。・・・これまでの成功は、彼らの決意が正しかったことを証明している。<セバスチャン・ハフナー/瀬野文教訳『ドイツ現代史の正しい見方』2006 草思社 p.199-202>
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セバスチャン・ハフナー
瀬野文教訳
『ドイツ現代史の正しい見方』
2006 草思社