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プロイセン

ドイツ騎士団領に始まる、エルベ以東を中心としたドイツ東部で、16世紀にプロイセン公国が成立。17世紀にブランデンブルク選帝侯国と同君王国、1701年にプロイセン王国となる。ユンカー階級を基盤として国力を増強し、18世紀にはドイツ統一の主導権を握り、1870年にドイツ帝国に発展した。


<概略>プロイセンはドイツの一部であるが、支配する地域はドイツにとどまらず、現在のポーランドにもひろがっていたにまず注意しよう。また、ドイツ騎士団に始まり、プロイセン公国を経てプロイセン王国となり、最後はドイツ帝国の中核となるという、公国→王国→帝国という国家形成の過程を明確に分けるようにしよう。
公国から王国へ バルト海に面した現在のポーランド海岸地方一帯は、地名としてプロイセンと言われ、リストニアやラトビアと同じくバルト語系に属するプロイセン人が居住していた。彼らはスラヴ系では無く、また後のプロイセン国民と区別して、古プロイセン人(またはプルーセン人)という。その地域に、ドイツ人の東方植民の一環として移住して来たドイツ騎士団が定着した。それがプロイセン国家のはじまりである。
 16世紀、宗教改革ではルター派となり、騎士団の長ホーエンツォレルン家がポーランド王からプロイセン公に封じられ、1525年プロイセン公国となった。公国とは、国王から与えられる地位であり、事実上は独立しているが、形式上は王国に従属している形態をとった。このようにプロイセン公国はポーランド王を宗主国としているので、神聖ローマ帝国には属していない。
 しかし、1618年には神聖ローマ帝国を構成する領邦の一つブランデンブルク選帝侯国と同君連合国家となり、帝国の内と外にまたがる領土を持ち、三十年戦争を通じて有力な領邦国家に成長して実質的に独立した主権国家となり、1701年プロイセン王国に昇格しベルリンを首都とした。
王国から帝国へ  18世紀後半、フリードリヒ2世(大王)が啓蒙専制君主として統治し、周辺諸国との数度の戦いでフランス、オーストリア、ロシアなどと並ぶ大国になった。しかし、ナポレオン時代にはその侵略を受けて近代化の必要に迫られプロイセン改革が実施される。しかし19世紀前半のウィーン体制時代には改革は徹底されないまま、プロイセンはドイツ連邦の構成国として、自由主義やドイツの民族統一をめざす運動は弾圧された。1848年ベルリン三月革命の勃発を受けてドイツの統一を話し合うフランクフルト国民議会が開催されたが、オーストリアを含むかどうかでまとまらず、統一はできなかった。19世紀後半には、プロイセンはビスマルクの主導のもと軍国主義体制を作り上げて普仏戦争で勝利し、1871年にプロイセン王がドイツ帝国皇帝を兼ねる体制が出来上がった。こうしてプロイセン主導によるドイツ国家の統合が始まる。

(1)プロイセン公国

ユンカーの形成

 プロイセン(英語発音ではプロシアと表記)は、北ドイツとポーランドにまたがる、バルト海に面した一帯で、もとはスラヴ系プロイセン人が居住していたが、12世紀ごろからドイツ騎士団東方植民が始まり、ドイツ人がスラヴ人を排除して居住し、土地貴族(ユンカー)が農場(グーツヘル)を直営する農場領主制(グーツヘルシャフト)を行うようになった。
 ドイツ騎士団はバルト海東南岸に植民活動を展開して、一個の国家を建設した。その脅威を受けて成立したリトアニア=ポーランド王国(ヤゲウォ朝)との間で戦争を繰り返し、1410年にはタンネンベルクの戦いに敗れてそれ以上の東進を阻まれた。さらにドイツ騎士団はリトアニア=ポーランド王国との十三年戦争(1454~66年)を戦ったが敗れ、バルト海に面したグダンスク(ドイツ名ダンツィヒ)を奪われた。

プロテスタント改宗とプロイセン公国成立

 16世紀に宗教改革が始まると、ドイツ北方にはプロテスタントのルター派の信仰が拡がり、ドイツ騎士団長のホーエンツォレルン家もプロテスタントに改宗した。その間もポーランドとの戦いは続いたが、ドイツ騎士団は押され気味であったため、1525年にホーエンツォレルン家のアルブレヒトは、クラクフの広場でポーランド国王ジグムント=スターリの足下に跪いて臣従の誓いを立て、初代の大公として認められ、プロイセン公国が成立した。こうしてドイツ騎士団は宗教騎士団としての僧衣を脱ぎ、ルター派の新教を信奉するけれども、世俗の君主国で、しかもポーランドを宗主国とする一公国として出発した。  → ドイツ


(2)ブランデンブルク=プロイセン公国

ブランデンブルク=プロイセンの成立

 1618年、同じくホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯国のヨハン=ジギスムントがプロイセン公を相続し、ここにプロイセン公国とブランデンブルク選帝侯国は同君連合国となった。この国は、ブランデンブルク領のドイツ本土(ベルリンを中心とした地域)とプロイセン本来の現在のポーランドのバルト海に面した地域(東プロイセンとも言われた)とが繋がっていない、その間にはポーランド領があるという、“飛地国家”だった(当時のドイツ諸侯の領土は何れも入りくんでいて一体化されていない)。
 この1618年、ドイツにとって大きな転換期となった三十年戦争が始まった。ブランデンブルク=プロイセンはプロテスタント側として戦ったが、カトリック陣営との長い戦いによって国土は荒廃し、疲弊してしまったが、1648年の講和条約ウェストファリア条約では東ポンメルン(現在のポーランド北部)を領有が認められた。戦後にはフリードリヒ=ヴィルヘルム大選帝侯は国力の増強に努め、ポーランドとスウェーデンの対立を利用して1660年にプロイセンのポーランドの宗主権からの独立を勝ち取り、ドイツの中の最有力な領邦となった。
フランスからのユグノーの移住 プロイセンの国土は地味が薄く荒廃していた。1640年、20歳で選帝侯となったフリードリヒ=ヴィルヘルムは、皇太子時代にオランダに留学した経験からオランダの農業技術を導入しようと考え、オランダ人の集団移住を働きかけ、その結果、かなりのオランダ人がドイツ北東部に移住した。さらにフランスのルイ14世ナントの王令を廃止すると、フリードリヒ=ヴィルヘルムは好機と考え、いわゆる「ポツダム勅令」を発布して、フランス人ユグノー(新教徒)のプロイセンへの亡命受け入れを表明した。その結果、約2万人のユグノーが母国の宗教弾圧を逃れてブランデンブルク=プロイセンに入国し、彼らはベルリンなどの都市で諸産業に従事し、経済発展に寄与した。当時、ベルリン居住者の3分の1がこうしたフランス系プロテスタントであった。<マンフレッド・マイ/小杉尅次訳『50のドラマで知るドイツの歴史』2003 ミネルヴァ書房 p.120>

(3)プロイセン王国

1701年に王国に昇格、フリードリヒ=ヴィルヘルム1世が軍国主義体制の基盤を作り、18世紀中期にフリードリヒ2世が出て啓蒙専制君主として統治にあたりヨーロッパの大国となる。

王国に昇格

 ブランデンブルク=プロイセン公国のホーエンツォレルン家は、1701年スペイン継承戦争が起きると、オーストリアのハプスブルク家側に立って参戦した。その功績により、王国に昇格し、以後、プロイセン王国と言うようになる。
 このとき選帝侯フリードリヒは、スペインとの戦争でハプスブルク家の皇帝軍に援軍を送っただけでなく、莫大な献金を贈ったことによって国王の称号を得た。当時はまだ皇帝からみると臣下の一諸侯に過ぎず、相手にされていなかっただけでなく、権威を高めるための豪華な宮廷生活などを行ったため財政難に陥った。次の国王フリードリヒ=ヴィルヘルム1世の課題はプロイセンを存続させるための財政の立て直しと強力な軍事力の創出であった。

軍国主義体制をとる

 1701年、公国から王国に昇格したのは、スペイン継承戦争に際し、プロイセンがオーストリアの神聖ローマ帝国皇帝ハプスブルク家側について戦ったことに対する報償の意味があった。この地は東方植民以来のグーツヘルシャフトという封建的大土地所有制が根強く、土地貴族であるユンカー階級を基盤とした絶対王政が展開された。フリードリヒ=ヴィルヘルム1世が基盤を築き、軍国主義体制を作り上げた。
国家の“兵営化” フリードリヒ=ヴィルヘルム1世は国家予算による歳入・歳出の厳格な管理を実行すると共に、国費の大半を軍事費に注ぎ、兵士を徴募してプロイセン軍を編成した。プロイセン軍の兵士数は初期には4万人であったものが、徐々に増加し8万人にふくれあがったが、当時人口は300万前後であったので軍人の占める割合は驚くべきものとなり、ヨーロッパ有数の軍事国家となった。また、フリードリヒ=ヴィルヘルム1世は軍人的価値観である“職務への自覚”、“自己鍛錬”、“秩序の遵守”などを国全体に押しつけたため、プロイセンは全土が“兵営化”され、国民は極端に厳格な国家体制と国家哲学のもとでの生活を余儀なくされた。<マンフレッド・マイ/小杉尅次訳『50のドラマで知るドイツの歴史』2003 ミネルヴァ書房 p.123-124>

フリードリヒ2世の統治

 1740年5月31日に即位した次のフリードリヒ2世(大王)は典型的な啓蒙専制君主として上からの改革を進め、ヴォルテールを招いて開明的な施策を採る一方、軍隊の強化に努めて周辺諸国との戦争を重ね、領地を拡大した。その最大の敵対国は同じドイツ民族、ドイツ語の国家オーストリアであった。
オーストリア継承戦争 まず1740年マリア=テレジアのハプスブルク家督相続に異議を唱えてオーストリア継承戦争を起こしてシュレジェンを奪った。
七年戦争 敗れたオーストリアのマリア=テレジアはフランスと手を結ぶという大胆な外交革命に踏みきり、プロイセンは孤立したが、1756年に先制攻撃を仕掛けて七年戦争を開始、苦戦したがかろうじて勝利してシュレジェンを確保、プロイセン王国がフランス、イギリスに続くヨーロッパの大国となる端緒となった。
ポーランド分割など また、1772年、ロシアのエカチェリーナ2世とともに第1回ポーランド分割に加わり、西プロイセン(ダンツィヒを除く)を獲得し、念願のブランデンブルク地域と東プロイセンが繋がることになった。アメリカ独立戦争が起きると、これもエカチェリーナ2世の呼びかけに応じ、1780年の武装中立同盟に加わっている。
啓蒙専制君主として フリードリヒ2世はベルリン西方のポツダムに離宮としてサンスーシ宮殿を建造し、18世紀ヨーロッパの華やかなロココ美術を開花させ、啓蒙専制君主としてフランスからヴォルテールを招いて議論し、自らフルートを奏で詩や歴史を著作するなど、文化的な皇帝としても知られている。

プロイセンの改革と大国化

フランス革命に干渉したが1792年、ヴァルミーの戦いで敗れる。次いでナポレオン軍の侵入を受け、改革の必要に迫られ、シュタインとハルデンベルクによる改革が試みられる。ウィーン体制の時代、ドイツ統一の中心となったが、統一はならず、ビスマルクの軍国主義体制が出現。普墺戦争・普仏戦争を経て大国化の歩みを早める。

フランス革命とナポレオン戦争

 フランス革命が勃発すると、1792年にオーストリアとともに干渉軍を進めたが対オーストリア開戦に踏み切ったフランスの義勇兵を主体とした市民軍とのヴァルミーの戦いで敗れて失敗した。その後は、対仏大同盟に加わり革命の波及を防止することにつとめた。フランスでは革命後にナポレオンが登場、ヨーロッパ制覇に乗りだすと、プロイセンは1806年イエナの戦いで敗れ、ナポレオンのベルリン入城を許し、ティルジット条約でポーランドを失うなどの屈辱を受けた。

プロイセン改革

 この衝撃からプロイセン改革の気運が高まり、1807年10月からシュタインハルデンベルクの指導する近代化改革が行われ、農民解放や軍政改革、教育改革が進んだ。この改革は近代的な国民国家への準備であったと言えるが、また不十分なものであった。特にユンカーは、農民の職業選択が自由になったことで解放されたことによってその基盤である農場領主制(グーツヘルシャフト)はなくなったが、依然として大土地所有を継続し、あらたに労働者を雇用して大農場経営を行ったり、工場を設立して産業資本家に転身するなど、その社会的地位を保ち、依然として官僚や将校を独占し続けた。ドイツでは社会の近代化とともに、ドイツ統一問題が課題とされるようになり、プロイセンはその主導権を握ることとなる。

ウィーン体制下のプロイセン王国

 1813年ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)でナポレオン軍を破り、さらに1815年ワーテルローの戦いで勝利してナポレオン戦争後の大国に復帰した。ウィーン議定書でプロイセンは、ドイツ西部のラインラントなど工業地帯を獲得し、1815年5月に新たに結成されたドイツ連邦を構成する有力国の一つとなった。
 1830年のフランスの七月革命の影響を受けてドイツ連邦でも自由主義を求めてドイツの反乱が起きたが、弾圧された。しかし、多くの邦国に分裂しているドイツは産業発展の遅れを克服するためにも、イギリス・フランスに対抗できる国民国家として統一されることを求める声も強くなった。そのような中でプロイセンは、1834年ドイツ関税同盟を組織してドイツの経済的統一を進め、ドイツの産業革命の端緒についた。

フランクフルト国民議会

 1848年、フランスの二月革命がベルリンに飛び火、プロイセンでも憲法の制定などを求めベルリン三月革命が勃発した。国王は憲法制定を約束し、自由主義的な内閣も設立され、さらに1848年5月に開催されたフランクフルト国民議会でドイツ統一と帝国憲法制定が目ざされた。当初、大ドイツ主義(オーストリアを含む統一を目ざす)が優勢であったが、オーストリアが帝国が分断されるところから強く反発し、その結果、オーストリアのドイツ人居住地域を除くという小ドイツ主義が採られることとなり、帝国憲法案を作成しプロイセン国王を新皇帝に迎えようとした。しかし、プロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世は議会から与えられた帝位を拒否したため、帝国憲法は宙に浮いてしまった。こうしてフランクフルト国民議会は失敗に終わり、なおも帝国憲法制定を求める勢力が蜂起したが、プロイセンの武力によって鎮圧されてしまった。その後もドイツの統一を巡って、オーストリアとプロイセンのいずれが主導権を握るかというドイツ統一問題が深刻になっていった。

欽定憲法の制定

 プロイセンは1848年の憲法をさらに保守化させて1850年に欽定憲法を制定した。三月革命後の反動によって、オーストリアは欽定憲法を廃止したのに対して、プロイセンは一応、立憲君主体制を採ることにより、オーストリアとの違いを示した。この欽定憲法(議会や国民投票によって制定されたのではなく、皇帝が制定したという意味)は、後のドイツ帝国憲法の本となり、日本の明治憲法にも影響を与えたもので、議会制度は導入されたものの国王権限は行政権・大臣任免権・統帥権、さらに官吏の任免権、外交権、議会の解散・停会権をもつなど、強大であった。議会は上院・下院の二院制で、上院は国王の任命する貴族と大土地所有者などの終身議員から成り、下院は国民の選挙によって選ばれるが予算審議権を与えられただけであった。また下院議員選挙は建て前は普通選挙であったが、実際には三級選挙制という、財産によって分けられた三級ごとに選挙人が割り振られるという独特のもの(明治憲法ではこの部分は採用されなかった)で、不平等なものであった。 → ドイツの普通選挙制

ビスマルクの登場

 1862年に首相となったビスマルクは「鉄血政策」という富国強兵策を進め、デンマーク戦争普墺戦争で領土を拡大し、1867年にはプロイセンを盟主として北ドイツ連邦を結成(これでドイツ連邦は消滅)した。ビスマルクはフランスのナポレオン3世を巧妙に挑発して戦争に持ち込み、普仏戦争でそれを破り、1871年1月8日にヴェルサイユ宮殿でプロイセン国王ヴィルヘルム1世のドイツ帝国初代皇帝としての即位式を挙行し、プロイセン王国はドイツ帝国(第二帝国)となった。

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