ドイツ連邦共和国/西ドイツ
1949年5月、ドイツの西半分、アメリカ・イギリス・フランス占領地区が西ドイツ基本法を制定して独立した国家となった。首都はボンに置かれた。これによりドイツは東のベルリンを首都としたドイツ民主共和国とに分断された。
第二次世界大戦で敗北し、ドイツが東西分断されることとなり、1949年5月23日の西ドイツ基本法(ボン基本法とも言う)にもとづいて成立した国家。略称西ドイツ。5月に公布された基本法により、8月14日に第1回連邦議会総選挙が行われ、キリスト教民主同盟(CDU)・キリスト教社会同盟(CSU)連合が社会民主党(SPD)を抑え第一党となった。同年9月7日、暫定首都ボンにドイツ連邦議会が成立して正式に国家として発足、ついで9月12日、連邦議会がテオドール=ホイスを初代大統領に選出、さらに15日にCDU党首のアデナウアーを初代首相に選出した。首都は暫定としてボンと定められた。
これに対抗する形で、同年10月には東ベルリンを首都としてドイツ民主共和国(東ドイツ)が建国され、これによってドイツは分断国家となった。この段階ではいずれも相手を国家としては認めておらず、いずれも建前は全ドイツを統治すると規定していた。
その間、社会主義体制をとる東ドイツとの関係は次第に悪化し、武力衝突の危機が高まったことを背景に、1954年のパリ協定にもとづいて1955年5月5日に国家主権を回復すると共に再軍備を西側諸国から認められ、翌日、NATOに加盟した。1957年には長年のフランスとの間のザール問題も決着し、ドイツ復帰を実現した。こうして西ドイツは独立を回復したものの、東西冷戦体制下で西側諸国の最前線として緊張を強いられ、地域的には東ドイツに含まれることになったベルリンも都市自体が東西に分割され、ベルリン問題という緊張が続いた。
そのような中、西ドイツでも核武装計画が浮上。1955年のラッセル=アインシュタイン宣言などで高揚していた核廃絶運動の声は西ドイツでも湧き上がり、1957年4月12日に物理学者18人が連名でゲッティンゲン宣言を出した。
これに対抗する形で、同年10月には東ベルリンを首都としてドイツ民主共和国(東ドイツ)が建国され、これによってドイツは分断国家となった。この段階ではいずれも相手を国家としては認めておらず、いずれも建前は全ドイツを統治すると規定していた。
西ドイツの復興
ドイツ連邦共和国(西ドイツ)はその後、資本主義市場経済と議会制民主主義、連邦制を原則とした西側諸国の一員として、アデナウアー政権のもと、マーシャル=プランによる援助を受けて経済の復興に取り組み、同時に西側諸国との結びつきを強めていった。その間、社会主義体制をとる東ドイツとの関係は次第に悪化し、武力衝突の危機が高まったことを背景に、1954年のパリ協定にもとづいて1955年5月5日に国家主権を回復すると共に再軍備を西側諸国から認められ、翌日、NATOに加盟した。1957年には長年のフランスとの間のザール問題も決着し、ドイツ復帰を実現した。こうして西ドイツは独立を回復したものの、東西冷戦体制下で西側諸国の最前線として緊張を強いられ、地域的には東ドイツに含まれることになったベルリンも都市自体が東西に分割され、ベルリン問題という緊張が続いた。
そのような中、西ドイツでも核武装計画が浮上。1955年のラッセル=アインシュタイン宣言などで高揚していた核廃絶運動の声は西ドイツでも湧き上がり、1957年4月12日に物理学者18人が連名でゲッティンゲン宣言を出した。
西ドイツ/奇跡の経済復興
奇跡の経済復興
西ドイツは1949年以来のキリスト教民主同盟(CDU)のアデナウアー長期政権が1950年代を通じて続いた。この間、アデナウアーは東ドイツとの対決路線をとり続け、東西冷戦は1961年の東ベルリン当局によるベルリンの壁の建設で最も緊張が高まった。この間、西ドイツは「奇跡」といわれる経済復興を遂げた。それは東ドイツとの統一を犠牲にして西側諸国との結びつきを強めることによって成し遂げられた。アデナウアー長期政権は1963年のド=ゴールのフランスと間で独仏友好条約を成立させたことを花道にして退陣した。大連立内閣の成立
続いてキリスト教民主同盟のエアハルトが政権を継承したが、ベルリンの壁構築後の東ドイツとの対話を求める世論を無視し、また経済の停滞を招いたため退陣を余儀なくされた。1966年の総選挙の結果、過半数を占める政党が無かったため、キリスト教民主同盟とそれまで野党だった社会民主党(SPD)が初めて連立を組み、CDU党首のキージンガーを首班とする内閣が成立した。SPD党首ブラントは外務大臣となった。これを大連立内閣という。大連立内閣の崩壊
キージンガー大連立内閣の成立によるオール与党化は、変化を求める学生や労働者のいらだちを強めていった。1967~68年、フランスの五月危機(五月革命)やアメリカのベトナム反戦運動などが世界的に広がるなか、ドイツにおいても学生運動が激化し、そのために大連立内閣は倒れた。Episode 西ドイツの学生反乱
1967~68年の西ドイツ全土に学生反乱の嵐が吹きまくった。リーダー格はドイツ社会主義学生同盟(SDS)で、もとは社会民主党系であったが、同党が1959年にマルクス主義を放棄したゴーデスベルク綱領を掲げたことを機に、その支配下から脱していた。1967年6月、イランの国王パフレヴィー2世が西ベルリンを訪問、学生はアメリカ帝国主義と結ぶ専制君主を許さないとして反対運動を展開した。学生の一人が警察に射殺されたことからストライキや授業妨害が全国に広がった。学生の運動は世界的なベトナム反戦運動やフランスの五月危機に連帯してエスカレートし、大学改革を叫んで街頭でバリケードを築いた。その運動は従来の権威を否定し、ピルの解禁など生活意識の変革も要求するものであった。リーダーの一人ドゥチュケは子供を肩車に乗せてデモの先頭に立った。しかし、69年になると世論は次第に学生に批判的となり、全体的な運動は停滞し、一部の学生は過激なテロに走るようになった。<三島憲一『戦後ドイツ -その知的歴史-』 1991 岩波新書>