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中華民国憲法

日中戦争の後の国共内戦中に、南京に戻った国民党政府によって、1947年1月1日に公布された中華民国の憲法。中華民国で最初の三権分立などを規定した民主的憲法であったが、台湾移転後は戒厳令が施行され、国民党独裁、人権抑圧が続いた。

 日中戦争後、国民党・蔣介石と共産党・毛沢東は双十協定を締結、当面の内戦を回避し、政治協商会議(政協)の設立で合意した。政協において、国民党・共産党以外にも民主同盟などの政党も参加して協議された結果、中華民国への統合と当時に国民党の権限の制限と憲法制定国民会議を開催して憲法を制定することなどで合意した。
 しかし、両党とも独自の軍隊を統合させることに反対したため、両軍の衝突が各地で繰り返されるようになった。1946年5月、国民政府は重慶から南京に戻ったが、国民党と共産党の対立は解消できず、1946年6月、蔣介石は共産党拠点への全面攻撃を命じ、ついに国共内戦(第2次)に突入した。

臨時約法・中華民国約法・中華民国憲法

 内戦は当初、数の上で優位な国民党軍が攻勢をかけ、戦況も有利に展開した。そのような中、国民党は政協の合意を無視して、1946年11月、独自の議員だけを召集して憲法制定国民会議を招集、共産党・民主同盟などボイコットして参加しないまま中華民国憲法を制定し1947年1月1日に公布した。
 この憲法は、中華民国にとっては辛亥革命直後の1912年3月11日に制定された中華民国臨時約法、国民党蔣介石の政権のもとで1931年に制定された中華民国訓政時期約法(中華民国約法)以来の基本法であり、また孫文の提唱していた民主国家実現に向けての革命の三段階「軍法」・「約法」・「憲法」の、最後の段階に達したことを意味していた。

中華民国憲法の制定

 また、蔣介石にとっては、共産党との厳しい内戦を戦う中で、多くの国民の支持を受けなければならない状況であったため、民主的な憲法を制定して、蔣介石の独裁色を薄めておく必要があった。そのため、この憲法の規定は三権分立、議院内閣制、基本的人権の保障などの進んだ内容を持っていた。この憲法によって中華民国はようやく立憲国家となったいえるが、実態はそれには程遠いものだった。まず、12月に憲法が施行され、1948年3月に国民大会(議会)が開催されることになり、それ向けての選挙が行われることになったが、内戦下であったことあっては約8割が棄権するという状態であった。この憲法が幅広い国民の合意を得るという手続きをとっていないことから、国民の多くはそっぽを向き、また選挙も買収と暴力、替え玉が横行したため国民はますます遠のいていった。
 国共内戦は次第に共産党軍(人民解放軍)が反攻に転じ、ついに国民党軍は追いつめられ、1949年10月1日、中華人民共和国が北京に成立、同年12月までには国民党・蔣介石に率いられた中華民国政府は憲法とともにと台湾に移動する。国民党政府は内戦状態の継続を理由に軍事独裁政権となり、また二・二八事件(大陸から移動した外省人と台湾にもともと住んでいた本省人の対立事件)を機に戒厳令を施行したため、国民党の独裁と基本的人権の制限が続いたためこの憲法は死文化してしまったといえる。

1947年中華民国憲法の意義

 1947年1月に公布された中華民国憲法は、近現代中国の憲政史上、画期的な意義をもつ。リンカンのことばに由来する「民有民治民享(人民の人民による人民のための)民主共和国」を宣言し、国民党の優位は明記せず、議会に立法、予算、条約の承認などで権限を与え、議院内閣制、司法の独立など三権分立を明記した。また言論出版、集会結社の自由、基本的人権の保障も含んでいた。この憲法は大陸で施行されていた期間が短く、台湾移転後は戒厳令が出されたため実効性が乏しかったので軽視されているが、1987年の台湾民主化はこの憲法によって導かれたものであり、重要な歴史的な役割を果たしてる。<久保亨『社会主義への挑戦』シリーズ中国近現代史④ 2011 岩波新書 p.23-25>

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久保亨
『社会主義への挑戦』
シリーズ中国近現代史④
2011 岩波新書