国共内戦(第2次)
日中戦争終結後の中国で1946年6月に始まった国民党と共産党の内戦。最終的には共産党が勝利し、1949年10月、中華人民共和国が成立して終わり、国民党政府は台湾に逃れた。
日中戦争に勝利した後の中国において、1946年6月から1949年12月まで続いた、中国共産党(人民解放軍)と中国国民党(国民革命軍)の内戦。1927年の国共分裂から続いた最初の国共内戦(第1次)は、抗日戦争のために1937年に第2次国共合作が成立して停止されたが、その後も多くの国共両軍事衝突が発生していた。こちらを第2次国共内戦とするが、一般に国共内戦と言われるのはこの1946~49年の内戦を言う場合が多い。
共産党の紅軍は1947年3月、人民解放軍と改称して解放区の防衛にあたった。国民党軍は解放区に対する全面的な攻勢を仕掛け、1947年6月には共産党の拠点延安を攻略した。しかし、共産党はソ連が日本軍に代わって支配をしていた東北地方(旧満州)に勢力を移し、ソ連軍が日本軍から奪った武器の提供を受け、反攻の準備を強化した。
共産党は国共合作を維持した段階では、その支配区域での土地改革を一定程度抑制して、小作料の引き下げを行うだけに留めていたが、内戦が始まると土地配分を指令して地主の土地を強制的に取り上げて貧農や小作人に分配して、いわゆる農村の封建制度一掃を推進しながら支持を拡げていった。
日本降伏後の情勢
1945年8月10日、中国軍は日本軍が降伏を決意したことを傍受し、ただちに日本軍の武装解除に乗り出した。蔣介石は日本軍の武装解除を国民党軍が行うことを共産党軍に通告したが、国民党軍の支配の及ばない地区では共産党が日本軍の武装解除を行ったため、早くも両軍は一触即発と言う状態になった。しかし長期の戦争に倦んでいる国民の要望と中国の内戦に反対する米ソなどの国際世論であったので、とりあえず軍事解決を棚上げして、8月末に蔣介石と毛沢東による重慶会談を開催した。交渉は難航の末、ようやく1945年10月10日に「双十協定」を締結、「内戦の回避と政治協商会議の開催」で合意し、統一の道筋を探ることとなった。マーシャル特使の調停
1946年1月10日、国共両党および他の党派の代表が集まり、政治協商会議が開催され、統一政府の設立では合意が成立したが、それぞれの軍事力の統合では利害の対立が明確になり、一致できなった。共産党はその支配下の解放区で、「減租減息」(小作料と利息の減額)を実施して民衆の支持を広げていった。アメリカも国共内戦の勃発を恐れ、マーシャル特使を派遣して斡旋を試みた。しかし最終的な合意に至らず、ガラス細工のような国共協調路線も、ついに破綻を迎え、1946年6月26日、蔣介石は共産党解放区への進撃を命令し、本格的な国共内戦に再び突入した。内戦の展開
当初は国民党が圧倒的に優位で(兵力は国民党430万、共産党120万、支配地域の人口は国民党約3億3千9百万、共産党約1億3千6百万)、おおむね共産党から見れば一対三であり、状況は厳しかった。しかも国民党軍はアメリカ軍の全面的な支援を受けていた。また、旧日本軍の軍人で中国軍に投降し、その技術を買われて国民党軍に加わる者も多数いたと言われている。共産党の紅軍は1947年3月、人民解放軍と改称して解放区の防衛にあたった。国民党軍は解放区に対する全面的な攻勢を仕掛け、1947年6月には共産党の拠点延安を攻略した。しかし、共産党はソ連が日本軍に代わって支配をしていた東北地方(旧満州)に勢力を移し、ソ連軍が日本軍から奪った武器の提供を受け、反攻の準備を強化した。
共産党は国共合作を維持した段階では、その支配区域での土地改革を一定程度抑制して、小作料の引き下げを行うだけに留めていたが、内戦が始まると土地配分を指令して地主の土地を強制的に取り上げて貧農や小作人に分配して、いわゆる農村の封建制度一掃を推進しながら支持を拡げていった。
共産党の勝利
東北地方を基盤として人民解放軍は態勢を立て直し、1948年からは反攻に転じ、遼瀋戦役(9~11月)、淮海戦役(11月~49年1月)、平津戦役(北京と天津の攻防戦、11月~49年1月)の三大戦役といわれる戦闘でたてづづけに勝利し、1949年1月31日、国民党の北京守備隊は自らの判断で降伏、毛沢東以下の共産党・人民解放軍が無血入城した。さらに人民解放軍は、国民政府の首都南京に4月24日に入城、さらに武漢、上海などの大都市を陥落させ、国民党首脳は広州、さらに重慶に逃れて抵抗したが、12月までにほぼ国民党軍を降伏させた。Episode 李自成の二の舞にはなるまいぞ
人民解放軍とともに北京に入城する際、毛沢東には次のようなエピソードがある。(引用)この時、北京入りにあたり、毛は科挙の最終試験を受けに行くことになぞらえ、「いよいよ受験のための都入りの日だ」と周りの幹部たちに声をかけ、「戻っては来られませんな。及第せねばなりません」と周恩来が応じると、「戻ってくるとは、つまり敗北だ。李自成の二の舞にはなるまいぞ」と言い聞かせたという。李自成とは、明末に農民反乱を率いて北京を陥落させ、明王朝を滅ぼしながら、流賊以上にはなりきれず、ほどなく満洲族の清王朝に取って代わられてしまった人物である。かつて低い身分から成り上がって王朝を建てた者としては、この闖王(ちんおう)こと李自成と明の太祖朱元璋がいるわけだが、歴史の先例を好んで取り上げる中国の世論は、共産党がひとしきり世を騒がせた李自成となるのか、それとも大王朝を築くのか、固唾を呑んで見守っていた観がある。<石川禎浩『中国共産党、その百年』2021 筑摩選書 p.157>
中華人民共和国の建国
この間、毛沢東は1949年10月1日、北京で中華人民共和国の樹立を宣言、国民政府要人は台湾に逃れ、蔣介石は50年3月1日台北で総統に復帰し中華民国を存続させた。<小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』岩波新書、横山宏章『中華民国』中公新書 p.286-291 などによる>