南京
金陵、建業、建康ともいわれた江南の大都市。明の最初の首都となる。アヘン戦争後の南京条約の締結地となり、太平天国もこの地を首都とした。1858年の天津条約で開港、辛亥革命により1912年から中華民国の首都となったが政情不安定が続いた。蒋介石の国民党による北伐の過程で、1927年に蒋介石が南京国民政府を置いた。日中戦争中の1937年12月には日本軍が攻略、その際多くの非戦闘員も殺害された。国民政府は直前に重慶に遷都、1945年の日本の敗北によって南京は首都に戻り、1949年国民政府が台湾に移るまで首都だった。同年成立した中華人民共和国は首都を北京に遷した。
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明の建国
元末の紅巾の乱のさなか、朱元璋は1356年にこの地を拠点として自立、応天府と名付けた。1368年に即位して明を建国、この地に大都城を築いて京師と称し都とした。これが、南京が中国全土の支配した王趙の都となった最初である。1421年に永楽帝が北京に遷都してからはその副都となり、それ以降はこの地は南京と言われるようになる。以上、金陵→建業→建康→江寧→南京という地名の変化に注意しておこう。なお、朱元璋が築いた明の都城は現在は荒廃し、見ることはできない。
明代から南京付近の農村では綿花の栽培が盛んになり、南京は綿織物業が盛んになった。南京産の綿織物は南京木綿と言われ、明代から清代にかけて、中国の主要な輸出品の一つとなった。
近現代の南京
明代、清代を通して南京は江南地方の中央都市の一つとして重要であったが、1840年に起こったアヘン戦争では、この地が講和条約の締結地とされ、1842年に南京条約が締結された。1853年から12年間は太平天国の都とされ、天京と言われた。辛亥革命が起きると1912年1月、中華民国が樹立され南京に都が置かれた。国共合作が成立し、蔣介石軍の北伐が迫った1927年3月には、南京でアメリカ・イギリス・フランスの領事館などが民衆に襲撃される南京事件がおこった。アメリカとイギリスは報復として南京を砲撃、中国側に多数の死傷者が出た。蔣介石はそれを共産党の指導によるものとして、1927年4月12日、突如上海クーデタ(四・一二事件)を実行して共産党を排除し、権力を握ってからただちに1927年4月18日、南京に独自の南京国民政府を樹立した。
翌年、蒋介石国民政府軍は北京に入場、北伐による軍閥の制圧を完了し中国を統一した。これによって南京は名実ともに中国(中華民国)の首都となった。それに伴って、北京は首都の座を失って北平と改名した。
日中戦争が勃発すると、1937年12月に日本軍は南京を攻撃、占領し、その際南京虐殺事件を起こし国際的な非難を浴びた。日本軍の南京攻撃に先立つ12月1日、国民政府は首都を重慶に移す措置を取っており、蔣介石自身も脱出していた。
日本軍撤退後、中華民国は重慶から南京に戻ったが、国共内戦(第2次)が始まり、1949年に人民解放軍の攻撃によって陥落、中華民国政府は台湾に逃れた。新たに成立した中華人民共和国は、同年10月1日、北京を首都として建国を宣言した。