中華人民共和国憲法
1954年9月に制定された中華人民共和国の憲法。新国家の現段階を「人民民主義国家」と規定し、社会主義建設を国家目標に盛り込んだ。西欧的な三権分立は取らず、選挙によって選出された全国人民代表者会議が立法権を有するとされた。中国における憲法は国家の基本法ではあるが、日本国憲法のように修正・変更がされずに守られていったのでは亡く、目標である社会主義国家建設の段階に応じてたびたび改正されている。
1954年9月、中国の国会にあたる「全国人民代表大会」(全人代)で採択された、中華人民共和国の最初の憲法。全人代は、1953年2月から1年以上の歳月をかけて全国で実施された普通選挙で選出された約1200名の代表から構成されていた。ただし、選挙は自由立候補ではなく、あらかじめ推薦された候補者に対する、18歳以上の男女による信任投票であり、人民代表(議員)は各県の代表が選挙する間接選挙制であった。
中華人民共和国憲法の内容は、建国初期の国家目標である将来的な社会主義国家建設に向かうための準備的段階として共産党以外のブルジョワ民主勢力も取り込んだ政治形態とすると言う新民主主義論の段階にありながら、1954年に毛沢東によって打ち出された「過渡期の総路線」にもとづく五ヵ年計画によって、ただちに社会主義国家建設にとりかかろう、というものであった。実質的に、中華人民共和国は、初期の新民主主義論による国家建設という理念から、社会主義国家建設を明確とした理念に転換した、と言うことが出来る。
また、全人代では、9月27日、憲法に定められた「国家主席」に、改めて毛沢東を選出した。
中華人民共和国憲法の内容は、建国初期の国家目標である将来的な社会主義国家建設に向かうための準備的段階として共産党以外のブルジョワ民主勢力も取り込んだ政治形態とすると言う新民主主義論の段階にありながら、1954年に毛沢東によって打ち出された「過渡期の総路線」にもとづく五ヵ年計画によって、ただちに社会主義国家建設にとりかかろう、というものであった。実質的に、中華人民共和国は、初期の新民主主義論による国家建設という理念から、社会主義国家建設を明確とした理念に転換した、と言うことが出来る。
中国、社会主義を目指す
毛沢東・中国共産党が、建国後、5年もたたないうちに、社会主義国家建設を全面的に打ち出すことになった背景には次の点があったと考えられる。- 朝鮮戦争で近代的装備のアメリカ軍と交戦して、中国の軍事力の立ち遅れを明確としたこと。近代化した軍隊を持つには国内の工業化が不可欠である。この段階ではアメリカと対立しているソ連に全面的に依拠して、工業化を図ろうとした。
- 朝鮮戦争の戦時下で、国内ではブルジョワ的民間企業に対する統制を徹底して進めたため、商工業の社会主義化が一定程度進んだ。
- 農村では国共内戦の段階から地主の追放、貧農への土地の分与などによって土地改革が進んだが、農民の小規模な個人経営では農業生産が低迷していた。1930年代のソ連型集団化(コルホーズ)をモデルに集団化によって経営規模を拡大する必要がある。
また、全人代では、9月27日、憲法に定められた「国家主席」に、改めて毛沢東を選出した。
中人民共和国憲法の改正
1954年に制定されてから、75年、78年、82年に全面的に改定され、その後も部分的な修正が88年、93年、99年と頻繁に加えられている。75年~82年憲法からは、中華人民共和国の規定を「社会主義国家」と規定している。82年憲法では市場経済導入、土地私有制なども盛り込むなど、路線の変更に応じて修正が加えられている。現行、82年憲法の特徴
現在の中華人民共和国憲法は、1982年11月26日、全人代5期5回大会で改正が承認されたもので、上記の変更とともに、次のような特徴がある。- 憲法前文で「四つの基本原則」を盛り込んだ。「中国の各民族、人民は、引き続き、中国共産党の指導下、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想の導きのもと、人民民主独裁を堅持し、社会主義の道を堅持して、……わが国を高度の文明と高度の民主をもった社会主義国家に作り上げるだろう」とある。これは鄧小平政権が改革開放政策を採用した反面、その経済面での改革が政治での民主化につながるのを防止するために加えた原則であった。
- 市民の権利条項は、1954年憲法の14ヵ条、1975年憲法の2ヵ条にくらべ、18条に増加し拡充された。自由権・参政権では言論、出版、集会、結社、行進の自由(第35条)、信仰の自由(第36条)、人身の自由(第37条)、人格権(第38条)、住宅の安全(第39条)、通信の自由と通信の秘密(第40条)、選挙権(第34条)、政府に対する批判権、建議権、監督権(第41条)が明記されている。