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新民主主義論

日中戦争中の1940年、中国共産党の毛沢東が発表した中国革命についての指針。1949年10月に成立した中華人民共和国の最初の国家指針とされた。それは共産党一党独裁はとらず、民主主義党派と協力しながら漸進的に社会主義国家を目指す、とされた。朝鮮戦争後の、1953年から、新民主主義に代わり、明確な社会主義実現を目指す路線に転換した。

 中国共産党の指導者毛沢東は中国革命を古い型のブルジョア民主主義革命でも、社会主義革命でもない、「新民主主義革命」と規定して、革命後の中国の目指す政権は、アメリカ型のブルジョア独裁でもソ連型のプロレタリア独裁でもない、第三の形態をとると位置づけた。さらに45年末には、「新民主主義論」をベースに、「連合政府論」を提起し、国民党中心の政権構想に対して、「幾つかの民主的諸階級の連合による新民主主義の国家形態と政権形態は長い期間を経て生まれるだろう」と述べた。
 日中戦争を乗り切った後、飢餓の続く中国国民には内戦に反対し平和的な統一国家の実現を求める声が急速に強まり、1945年8月末には蔣介石・毛沢東の重慶会談が行われ、難航の末、1945年10月10日双十協定が締結され、内戦の回避・政治協商会議の開催によって統一国家を建設することで同意が成立した。

中華人民共和国、当初の国家理念となる

 しかし、相互の不信は消えず、1946年6月から本格的な国共内戦に入った。2年以上の内戦の結果、共産党が最終的に勝利し、1949年9月に開催された中国人民政治協商会議を経て、同1949年10月1日中華人民共和国が建国された。国家主席には共産党主席のまま、毛沢東がけんにんすることとなったが、このとき新中国の国家理念として打ち出されたのがこの新民主主義であった。
 このように、中華人民共和国が最初は共産党独裁政権ではなかったことに注意する必要がある。新中国は「新民主主義論」に基づき、当初は幅広い民主勢力の連合政権として発足したのだった。このような、複数政党による人民戦線的な民主主義が「新民主主義」であり、そのころ東ヨーロッパ諸国で掲げられていた人民民主主義に対応するものであった。
POINT  新民主主義とは 五・四運動の時期の革命の目標を「旧民主主義」(ブルジョワ民主主義革命)とすれば、新中国での革命は次のような特徴を持つ。
  • 政治の面では、労働者・農民の党(共産党)が指導するが、一党独裁ではなく、民族資本家・知識人などの民主主義政党と連合した政治である。
  • 経済の面では、資本主義的性格をもつとともに、社会主義的経済を取り入れた混合経済である。
  • 外交の面では、外国勢力を排除し独立した国家を作るが、帝国主義に反対し国際的な平和と友好をはかる。
 このような段階が一定程度進み、成熟することによって社会主義段階に入る、と考えられた。<岸本美緒『中国の歴史』2015 ちくま学芸文庫 p.256 若干、表現を変えた>

新民主主義論の後退

 しかし、新中国をとりまく世界情勢は、このような「新民主主義」に基づいた、いわば穏健な革命を着実にすすめることを許さなかった。戦後まもなく(ある意味では戦中から)明確になってきた米ソの対立を軸とした東西冷戦は、急速に深刻化していった。特に新中国にとって、建国直後に勃発した朝鮮戦争は、大きく深い影響を与えた。開戦当初、毛沢東は参戦に消極的であったようだが、アメリカ軍が直接参戦して北朝鮮軍を鴨緑江まで追いつめる状況になったことで、北朝鮮支援を決定、義勇軍を派遣した。この戦争でアメリカ軍と直接戦うことになった毛沢東は、急速にソ連に接近した。国内政治の面でも、政権からブルジョワ民主主義勢力と目される勢力を排除し、共産党独裁体制に移行し、戦争態勢を固めることになった。台湾の国民党政府がアメリカの支援で本土反攻を掲げた事に対する意味もあった。
 毛沢東は、1953年に「過渡期の総路線」と言われる路線を提唱し、第1次五カ年計画を策定した。それは毛沢東が中国共産党の方針として新中国を事実上、新民主主義の継続を放棄し、急速な社会主義国家建設に向かうことを宣言したものであり、その客観的な背景には、世界的な東西冷戦の中で、アジアにおけるアメリカ帝国主義が日本、韓国、台湾、フィリピンなどとむすんで対共産圏包囲網の形成を形成しているという認識があった。それに対抗する意味で、新中国は外交面ではこのころから積極的なアジア・アフリカ諸国との提携に向かっていく。

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