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改革開放政策

文化大革命の終了の中国で、鄧小平の主導のもと、1978年に始まった本格的な経済近代化政策。経済特区の設置、市場経済の導入などにより、2000年代初頭まで中国経済の急激な成長をもたらした。

 中華人民共和国文化大革命の末期の時期の1975年1月に周恩来四つの現代化(近代化)を提唱したが、それは江青四人組の抵抗に遭い、激しい政争となって、実現できなかった。周恩来はすでに病身であったので、実際には鄧小平にその仕事は託されていたが、翌1976年に周恩来の死去を契機に天安門事件(第1次)が起きると、毛沢東は鄧小平に暴動の責任を取らせて解任した。

鄧小平政権の成立

 1976年10月、さらに毛沢東が死去すると、四人組の権力独占に対する不満が表面化し、四人組は逮捕されて毛沢東の後継者となった華国鋒によって文化大革命の終了が宣言され、1977年に再び「四つの近代化(現代化)」が掲げられるとともに、三度復権して鄧小平政権が成立した。
中国共産党第11期三中全会 鄧小平の主導することとなった中国共産党は、1978年1月の第5期全国人民代表会議(全人代)第1回会議で「近代化された社会主義」を目指す新憲法を採択した。ここで初めて、中国経済の全面的な発展を目指す改革開放路線が打ち出された。さらに、1978年12月18日中国共産党第11期三中全会(中央委員会第3回総会)で華国鋒を批判し、代わって実質的に会議をリードした鄧小平は「改革開放政策」を実行に移し、建国以来の毛沢東以降の方向を転換させることをはかった。これは、新たな鄧小平時代の始まりであり、現代中国の「歴史的な転換」となった。
経済特区の建設 1978年末に鄧小平政権によって打ち出された「改革開放政策」とは四つの現代化の基礎となる経済体制を、全面的に改めることであり、それは対外貿易拡大、外資利用、先進技術・管理経験の吸収、合弁などを推進し、その対外開放の戦略的な地域として経済特区を設置することを柱とした方針であった。その方針に基づき、1980年5月から、深圳(シンセン)・珠海・汕頭(スワトウ)・厦門(アモイ)の四つの地区が経済特区(特区)として整備され、内外の企業を誘致するためにインフラの整備、税制面の優遇措置などの法的整備が進められた。それに応じて外国資本が積極的に算入し、経済特区は急速に発展した。
 あわせて国内の資本主義的生産の導入が進められ、1980年には中国の社会主義経済の柱であった人民公社に対して、その非生産性を批判して、1982年に「人民公社の解体」を断行した。人民公社に代わって地方行政の単位となった郷・鎮では、1984年に、民間企業として郷鎮企業の設立が呼びかけられた。
胡耀邦総書記 さらに1982年に胡耀邦を総書記に据えて、改革開放路線を進めた。1984年には特区に続いて大連、秦皇島、天津、上海、福州、広州、湛江、北海など14の沿海都市を対外経済開放都市に認定し優遇措置を与えた。同年10月、中国共産党は「経済体制改革に関する決定」を採択し、指令統制経済から商品経済(後に「市場経済」と表現されるようになる)への移行の必要性が強調された。従来、「計画経済を主とし、市場調節を補とする」のが社会主義経済の常識であったが、ここでは「市場調節を主とする」ほどに商品経済の重要性が強調されるようになった。企業には自主権が与えられ、経営の主体である工場長に大幅な経営権を付与する(工場長責任制)が採られた。

参考 「改革開放」か「改革・開放」か

 一般的に改革開放は1978年の中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(第11期三中全会)で提起されたことによって始まった、とされている。中国共産党の「正史」もそう定めており、それが通説になっている。しかしそれは後から形成されたストーリーであり、事実とは異なるという。共産党の機関紙『人民日報』に「改革開放」ということばが初めて現れるのは1984年5月のことで、その年はわずか2回しか掲載されていない。『鄧小平文選』に登場するのは86年3月の談話でのことで、87年に人民日報での登場回数が一気に501回に跳ね上がる。また78年以前にも対外貿易やプラント導入は始まっている。<高原明生・前田宏子『開発主義の時代へ』シリーズ中国近現代史⑤ 2014 岩波新書 p.3>
 つまり1978年に突然、改革開放に転換したのではなく、87年ごろに本格的になった、ということであろう。また同書は、改革開放は鄧小平の権威と権力を表す政治的なシンボルにほかならないとし、そこから1987年に始まったというストーリーが作られたのであり、そのような理念を表す歴史的名辞としては「改革開放」と表記し、実際の具体的な政策について述べるときは「改革・開放」(あるいは改革開放政策)とを分けて表記すべきと提唱している。<高原明生・前田宏子『同上書』 はじめに>
 高校世界史一般では「改革開放」と「改革・開放」は特に意識して使い分ける必要はなさそうだが、山川詳説世界史では本文には「経済改革・開放政策」はあるが索引には載せられておらず、他の教科書や概説書では「改革開放」が優勢のようだ。用語集では山川版は「改革・開放政策」、実教出版版では「改革開放」とされている。同じような用語だが気になるところです。

参考 山川出版社詳説世界史の混乱した記述

 高校世界史の教科書山川出版社の『詳説世界史B』(2019年版)では、404ページで、文化大革命から復帰した「鄧小平らは人民公社の解体と、……開放経済、国営企業の独立採算化など一連の経済改革(社会主義市場経済化)を実行し、……」とし、次のページで天安門事件につづけて「しかし経済改革・開放政策には変化はなく、90年以降ASEAN諸国との関係を正常化し、……」と記述している。これでは改革開放と社会主義市場経済は区別されず、一体のもの受け取れる。大きくとらえればそれで良いのだろうが、他の教科書、例えば帝国書院『新詳世界史B』では「1980年代の中国は改革開放政策を進めたが、官僚の腐敗などへの不満が高まってきた。1989年、多数の人々が北京の天安門広場に集まり民主化を求めたところ、軍事的に鎮圧された(天安門事件)。1992年、鄧小平は中国南部を視察しながら、市場経済を利用して経済発展をめざす政策をうちだし(南巡講話)、党大会は社会主義市場経済の導入を決めた。」と記述している。
 中国現代史の概説書ではやはり80年代の「改革開放」と、それを発展、徹底させた92年に始まる「社会主義市場経済」を段階的に区別して記述しているので、山川詳説ではその違いがはっきりせず、混乱してしまうのではないか、と思われる。改革開放から社会主義市場経済へのステップアップをもたらした鄧小平の南巡講話の事実も押さえておいた方がよさそうだ。 → 社会主義市場経済の項を参照

矛盾の深刻化

胡耀邦総書記の解任 鄧小平は対外開放政策を「豊かになれる条件を持った地域、人々から進んで豊かになろう」という「先富論」を方針として、そこから生まれる格差を是認した。こうして80年代に経済の改革開放政策が急速に進展したが、それは、政治権力の上では中国共産党の一党独裁のもとで社会主義体制を堅持しながら、進められた。当然そこにさまざまな矛盾、軋轢が生じていった。改革開放が急速に進められたことで格差が生じ始めたこと、物価が高騰して庶民生活が苦しめられ、政治への不満が高まったことなどを背景に、民主化とを求める改革派、知識人・学生の意識も高まっていった。その中には複数政党制や政治活動の自由など西欧型の議会政治の導入を期待する声も強まった。政権の中でも胡耀邦は政治改革にも着手し、民主化に理解を示していたが、すでに「四つの基本原則」をうちだしていた鄧小平は、民主化はブルジョワ自由主義であり、社会主義の否定に繋がるとして厳しく批判、1987年に胡耀邦を辞任に追いこんだ。
趙紫陽の改革 胡耀邦に代わって総書記となった趙紫陽は、同年、中国共産党第13回全国大会の「政治報告」で、「社会主義初級段階論」を提起し中国の現状を社会主義社会ではあるが経済が立ち遅れ、農業が主で自給自足経済が大きな比重を占め、貧困と停滞が続いており、そこからの脱皮を図ることを最優先課題となっている段階と規定した。その脱皮のために近代的工業の発達、商品経済への移行が図られ、従来資本主義的と見なされていた不動産の売買、私営企業や株式制度の導入などの正当性をもつこととなった。さらに趙紫陽は、従来の経済特区、対外開放都市という開放拠点を増やすやり方から、沿海地区全体を西側的な国際経済システムに組み込み、厳しい国際競争の中で発展を図ろうとした。88年春は海南島を省に格上げし、全体を経済特区に指定した。

第2次天安門事件

 趙紫陽は政治改革にも着手し、国家と党の分離、政治の公開など、ソ連のゴルバチョフのペレストロイカの影響を受けた民主化を行おうとした。しかし、その市場経済導入が急速に進められたことで、格差の拡大や過剰投資、過剰生産などが行われたため、88年~99年にかけて急激な物価上昇、インフレが起こり、一般庶民に大きな犠牲が生じた。鄧小平は趙紫陽の改革開放政策を支持していたが、その行き過ぎが批判されると、混乱の責任を趙紫陽にとらせようとした。
 そのような中で前総書記胡耀邦が死去し、その追悼集化に集まった人々が鄧小平批判の声を上げたことから、1989年6月4日第2次天安門事件が起こると、鄧小平は戒厳令を布いて運動を弾圧し、民主派に同調しようとした趙紫陽を解任した。これによって趙紫陽の進めようとしていた政治改革はすべて破棄され、改革開放政策も大きな曲がり角を迎えた。
鄧小平の南巡講話 鄧小平政権の力による民主化の抑圧は国際的な批判に晒され、貿易にも深刻な影響を与えた。そのような苦境を迎えて、鄧小平は改革開放路線の立て直しに迫られ、1992年1月~2月から、深圳、珠海、上海など沿岸部の経済特区を歴訪し、更に徹底した改革開放を訴えた(南巡講話)。成長途上にあったこれらの経済特区では鄧小平の呼びかけに答えて投資を増やし、それによって経済復興が始まった。1992年10月、それを発展させた新たな理論として中国共産党が決定した理論が「社会主義市場経済」であり、それが社会主義と資本主義の矛盾を克服する大胆かつ積極的な理論として中国経済を動かしていくこととなる。それは次の1990年代に入り、江沢民政権のもとでさらに具体化され、中国経済は急速に成長していくこととなる。
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高原明生・前田宏子
『開発主義の時代へ』
シリーズ中国近現代史⑤
2014 岩波新書