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チェコスロヴァキアの民主化運動

チェコスロヴァキアでは、共産党一党支配と社会主義経済の停滞からの脱却をめざす民主化運動が何度か行われたが、ソ連の軍事介入を受け、抑えられてきた。1989年、東欧革命の広がる中、民主化を実現した。

 1960年代に入り、東欧社会主義圏の社会主義経済の停滞が目立ち始め、チェコスロヴァキア社会主義共和国においてもノヴォトニー政権はスターリン批判の動きに対しても同調せず、硬直化したその姿勢への不満が強まっていった。

ミラン=クンデラ

 1967年6月には作家同盟大会でミラン=クンデラ(『冗談』などの作品で知られる作家)が、「かつてのナチスの支配と同じように、スターリン主義は文化の発展を遮り、チェコスロヴァキアを文化的な僻地に追いやっている」と激しく批判した。それに対してノヴォトニー政権は作家同盟機関誌の編集委員会の解散、それを情報局の直轄に移した。しかし作家たちは機関誌への執筆を拒否、市民の間にも不買運動が起こり、また学生も政権の言論介入や経済政策を批判しデモを始めた。

ドプチェクとプラハの春

 ノヴォトニー政権にたいする辞任要求は共産党内部を動かし、翌1968年に第一書記はドプチェクに交代、そのもとで積極的な民主化の推進である「プラハの春」が実現した。文化人の民主化運動はドプチェクの改革を支持し、「二千語宣言」を発表した。

ソ連の軍事介入

 しかし、ソ連を中心としたワルシャワ条約機構5カ国軍を5カ国軍による軍事介入によってドプチェク政権は倒され(チェコ事件)、その後は共産党のフサーク第一書記による「正常化」と称する古い硬直した社会主義体制への復帰がなされ、70~80年代は再び重苦しい言論抑制が続くこととなった。

ハヴェルと「憲章77」

 次いで1977年、劇作家ハヴェルらを中心に、再び民主化と自由化を求める声が強まり、「憲章77」が発表されるたが、当局による言論取り締まりは続き、西欧諸国でもチェコスロヴァキアの人権抑圧が批判されるようになった。この長い民主化運動が前史となり、ようやく1989年の官僚主義的社会主義体制が崩壊し、チェコスロヴァキアの民主化が達成されることとなる。 → チェコスロヴァキア
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