チェコスロヴァキア
チェック人の居住するボヘミアとその東のスロヴァキアは、長くハプスブルク家領としてオーストリア=ハンガリー帝国に支配されていた。
その後、ベーメン(ボヘミア)とハンガリーの王位はポーランド・ヤゲウォ家が継承したが、ヤゲウォ朝のラヨシュ2世が1526年、オスマン帝国軍とのモハーチの戦いで戦死ししたため、両国の王位は王妃マリアの兄、ハプスブルク家のフェルディナント1世(カール5世の弟)が継承し、ベーメンはハンガリーとともにハプスブルク領となった。フェルディナント1世はオーストリア=ハプスブルク家としてスペイン=ハプスブルク家と分離し、神聖ローマ皇帝位をも継承することとなる。
その結果、チェック人とスロヴァキア人はともにハプスブルク家領としてオーストリア帝国の一部を構成することとなった。
ドイツ系の支配者に対するチェック人・スロヴァキア人の民族独立の要求は、ようやく18世紀末のフランス革命によって強まった。ウィーン体制の時代の終わりを示す「諸国民の春」と言われた1848年に、プラハを中心としたベーメン民族運動が昂揚しパラツキーらがスラヴ民族会議を結成したが、オーストリア軍に鎮圧されてしまった。
1866年、普墺戦争に敗れたオーストリアは、ハンガリーの形式的独立を認め、オーストリア=ハンガリー帝国となったが、チェック人・スロヴァキア人は依然としてその支配下にとどまっていた。
- (1)チェコスロヴァキア共和国の独立
- (2)ナチスによる解体
- (3)独立回復から社会主義化へ
- (4)民主化の動きから国家分離へ
(1)チェコスロヴァキア共和国の成立
第一次世界大戦後にチェコとスロヴァキアが合同して独立を実現、チェコスロヴァキア共和国が成立した。
チェコスロヴァキア共和国(第一共和国)
20世紀の初頭、民族運動がチェック人の中にも高まると、プラハ大学の哲学教授であったマサリクはその指導者として活動するようになった。オーストリア=ハンガリー帝国内のスラヴ系民族運動の激化から、第一次世界大戦が勃発すると、マサリクはパリに亡命しチェコ国民会議を組織し、共和国の樹立を目指した。1918年1月、アメリカのウィルソン大統領が十四カ条を発表、民族自決を提唱したことは大きな追い風となり、同年10月28日、チェコ国民会議はチェコとスロヴァキアが統一国家として独立を宣言、11月に連合国によってチェコスロヴァキア共和国が承認された。翌1919年のサン=ジェルマン条約でオーストリアも承認したのでその独立が国際的に実現した。この共和国を「第一共和国」ともいう。スロヴァキアはチェック人と同じ西スラヴ人でモラヴィア王国の一部であったが、11世紀以降はハンガリーの支配を受け、ハンガリーがハプスブルク家領となってからはそれに組み込まれていた。ハンガリー人の支配には早くから抵抗していたが、ようやく第一次世界大戦後の1920年のトリアノン条約でハンガリーはスロヴァキアのチェコとの合同国家建設を承認した。同年、チェコスロヴァキア共和国は新憲法を制定し、初代大統領にマサリクを選出した。
シベリアのチェコスロヴァキア軍団 なおチェック人・スロヴァキア人は第一次世界大戦が始まると、ともにオーストリア兵として動員され、東部戦線でロシア軍と戦った。彼らの中には、オーストリアに従うより、同じスラヴ系のロシア軍に投じるものが多く、進んで捕虜となった。そのようなチェコ兵捕虜は、ロシア革命後、チェコスロヴァキア共和国に加わり、西部戦線でドイツ・オーストリア軍と戦うため、シベリア経由で移動することとなった。このチェコスロヴァキア軍団はシベリア鉄道で東に向かったが、反革命政権と一体化する動きを示したため各地でボリシェヴィキと衝突した。そこでイギリス・フランス・アメリカ・日本はチェコ兵捕虜の救出を口実として、1918年8月からシベリア出兵を行い、ソヴィエト政権に対する干渉戦争を行うこととなった。
民族対立の始まり
チェコスロヴァキア共和国はチェック人とスロヴァキア人が合同した新国家として作られたが、政治や経済の面では先進地域であるチェコが主導権を握っていた。スロヴァキアは農業地域であったので従属的な地位に甘んじなければならなかった。民族的には同じ西スラヴ系でほとんど違いのない両者であるが、次第に対抗意識を持つようになり、ヒトラーがその対立を利用して介入してくることになる。チェコスロヴァキア(2)ナチスによる解体
1938~39年、ドイツのヒトラー政権にズデーテン地方を割譲、さらに東西に分割され、西部はドイツの保護領、東部は独立国となって解体された。亡命政権による対ドイツ闘争が始まる。
ナチス=ドイツによる侵略
マサリクは1935年に引退し、盟友のベネシュが大統領となった。1938年にオーストリア併合したヒトラーのナチス=ドイツは、同年チェコの一地方であるズデーテン地方にドイツ系住民が多数を占めることを理由に、その地方の割譲をチェコ政府に迫った。この問題で1938年9月29日にミュンヘン会議が開催されることとなったが、チェコスロヴァキア政府の首相ベネシュは参加が認められなかった。チェコスロヴァキア政府は英仏がドイツの要求を拒否することに期待をつないだが、宥和政策を採るイギリスのネヴィル=チェンバレン首相はドイツの要求をのみ、ズデーテン割譲を認めてしまい、チェコスロヴァキア解体の第一歩がはじまることとなった。チェコスロヴァキア解体
ミュンヘン協定によりズデーテン地方の併合を認められたヒトラーは1938年10月1日、ズデーテンにドイツ軍を進駐させて併合し、さらに1939年3月、残りの本土の西半分のベーメン(ボヘミア)・モラヴィア(メーレン)はドイツの保護領とし、東半分のスロヴァキアは独立国とした。しかしスロヴァキアも実質的にはドイツの保護国化し、これによってチェコスロヴァキアは完全に解体された。ヒトラーの領土欲はそれでもとどまらず、次にポーランドに対してダンツィヒの返還とポーランド回廊の通行を要求し、1939年9月、それを拒否したポーランドに侵攻することによって第二次世界大戦に突入することになる。亡命政府の対ドイツ闘争
1940年、ベネシュを大統領とする亡命政府が結成され、ベネシュは連合国の承認を取り付けた。同時に戦後はソ連との関係が重要になると判断して、1943年12月に訪ソし、ソ連=チェコスロヴァキア友好協力相互援助条約を締結した。占領下のチェコスロヴァキアでも共産党系と亡命政府系が協力して対ドイツ抵抗闘争を戦い、44年8~10月にはスロヴァキア国民蜂起が起こり、プラハでもゲリラ戦が続いた。ついに45年5月8日、ナチス=ドイツが敗北し、チェコスロヴァキアは解放された。チェコスロヴァキア(3)独立回復から社会主義化へ
第二次大戦後、共和国を再建、1946年自由選挙実施し議会制民主主義国家となる。マーシャル=プラン受け入れ問題で分裂し、1948年に共産党がクーデタで政権樹立、社会主義国に転換。
議会制民主主義国家の再建
チェコスロヴァキアはドイツ支配下でベネシュを首班とする亡命政府は、共産党が協力してゲリラ的な抵抗を継続し、解放後にソ連軍の了解の元に、共産党・国民社会党・社会民主党・人民党などの6政党による政府を組織し、1946年の自由選挙でベネシュが大統領に選出され、首相は共産党のゴットワルトが就いた。こうしてチェコスロヴァキアは、周辺のポーランド、ハンガリーが社会主義化し、ソ連の圧力が強まる中、共産党も含む複数政党制の下での議会制民主主義を維持していた。東ヨーロッパ圏にありながら、第二次世界大戦後にすぐに社会主義体制となることなく、西欧的な議会制民主主義国家となったことは注目すべきことであったが、それ故に東西冷戦が進行してくると、チェコスロヴァキアはその先鋭な対立地域とならざるを得なかった。共産党によるクーデター
戦後復興をめざすチェコスロヴァキア政府ベネシュ大統領は、アメリカ合衆国が1947年に打ち出した経済支援計画であるマーシャル=プランを歓迎し、その受け入れを決定した。ところが、ソ連は圧力をかけ、チェコスロヴァキア共産党も大々的な受け入れ反対のストライキを指導し、政府は立ち往生した。その結果、1948年2月に共産党のチェコスロヴァキアのクーデター(二月事件)が成功して共産党政権が成立し、チェコスロヴァキア社会主義共和国となった。チェコスロヴァキア社会主義国家の特色
チェコスロヴァキア社会主義共和国はソ連を中心としたコメコン・ワルシャワ条約機構に加盟し、東欧社会主義陣営のメンバーとなったが、その中で次のような特色を有していた。・工業が早くから発展し、地下資源も豊富であったこと。
・西欧的な議会制民主主義が、共産党政権成立以前に形成されていたこと。
チェコスロヴァキア(4)民主化の動きから国家分離へ
社会主義体制下で工業化が進み、民主化運動も始まる。1968年の「プラハの春」はソ連によって弾圧され、その後も民主化の動きは続き、89年の東欧革命の一環として民主化をかちとった。しかし、その副産物としてチェコとスロヴァキアの分離という事態となった。
①1948~1968年 スターリン体制の時代
1948年の2月事件で共産党政権が成立。大統領はゴットワルトからノヴォトニーに継承され、その間共産党はスターリン体制を受容して民族派やティトー派を粛清、次第に個人崇拝が強まり、経済は停滞した。1956年にソ連でスターリン批判が起こると、チェコスロヴァキアも同調する動きはあったが、非スターリン化は進まなかった。②1968年の「プラハの春」と「チェコ事件」
1960年代の経済停滞と言論抑圧に対して、ようやくチェコスロヴァキアの民主化運動が表面化し、まず知識人や学生の民主化運動が起こった。1968年4月に共産党第一書記ドプチェクは「人間の顔をした社会主義」を掲げて大胆な展開を図り言論・結社の自由、市場経済の導入、チェコとスロヴァキアの対等な連邦制などを打ち出したが、チェコスロヴァキアの社会主義離脱を警戒したソ連(ブレジネフ政権)と他のワルシャワ条約機構の5カ国軍は1968年8月に軍事介入してプラハに侵攻、改革を弾圧した。 → 「プラハの春」と「チェコ事件」③1969年~1989年 フサーク「正常化」政権
チェコ事件後に共産党第一書記となったフサークはソ連の指示に従い、社会主義の本来の姿に戻る「正常化」であるとして民主化・自由化を否定、再び計画経済と一党独裁の体制に戻した。この体制下でハヴェルなど知識人の自由化を求める運動は「憲章77」の運動となって引き継がれたが、弾圧され続けた。④1989年 チェコスロヴァキアの民主化、ビロード革命
ソ連におけるゴルバチョフのペレストロイカの始まりはチェコスロヴァキアのフサーク政権が「時代遅れ」になっていることを示した。1989年の一連の東欧革命が起こるとチェコスロヴァキアでも再び民主化と自由化を求める運動が起こり、大規模な市民集会が開催され、「憲章77」のハヴェルを中心に「民主フォーラム」が結成され、政権交代が叫ばれた。フサークを継承していたヤケシュ共産党政権は「民主フォーラム」への政権移譲を承認、今回はソ連や他の社会主義国からの介入はなされず、社会主義の放棄が決定され同年末に行われた大統領選挙でハヴェルが当選し、民主化が実現した。 → 1989年のチェコスロバキアの民主化⑤1992年 チェコとスロヴァキアの連邦解消
1989年の民主化が実現したが、その反動のような形で民族主義的な声が強まり、二民族の連邦国家を維持していたチェコとスロヴァキアに様々な対立が生じ、連邦制維持を掲げていたハヴェル大統領も辞任、1992年にチェコとスロヴァキアの分離を議会で議決し、1993年1月1日を期してまったく別な国として再出発することとなった。こうして「チェコスロヴァキア共和国」は1918年から1992年までの1世紀に満たない歴史に幕を下ろした。ヴィシェグラード=グループ 分離する前の1991年、チェコスロヴァキアは、ポーランド・ハンガリーの隣接する三国で経済的な教区を進めることで合意し、ヴィシェグラード=グループを発足させていたが、分離決定後の1993年1月に発足したチェコとスロヴァキアもそのままグループに残ったので、現在はヴィシェグラード4国と言われている。