印刷 | 通常画面に戻る |

アジェンデ

チリ社会党の指導者。1970年に大統領に当選し、議会政治のもとでの社会主義の実現を目指したが、アメリカの支援する右派と軍部が1973年にクーデタを実行、アジェンデ政権は倒され、本人も死亡した。政権を握ったピノチェトによる軍政となった。

アジェンデ

Salvador Allende 1908-1973
wikimedia commons

 サルバトル=アジェンデ(アイェンデと表記することもある)はチリの社会党の政治家。1970年11月に大統領選挙に、社会党と共産党のほか四つの中道政党から構成された政党連合「人民連合」を基盤に出馬し、最高得票を獲得したものの過半数に達しなかったため、国会で中道政党のキリスト教民主党の支持を受けて大統領指名をかちとった。アジェンデ政権は議会制のもとで社会主義社会を実現することを目指した世界で初めての政府であり、その動向は「チリの実験」として国際的な注目を浴びた。

軍部クーデタで倒される

 成立後三年足らずの1973年9月11日チリ軍部クーデタによって倒された。アジェンデ自身も軍に捕らえられ死亡した。(後に2001年の同時多発テロと同じ日付であるので、「もう一つの9.11」と言われた。)
 アジェンデ政権を倒したのは、ピノチェト将軍の率いる軍であったが、それを支援したのはニクソン政権のアメリカであった。国務大臣キッシンジャーが主導するアメリカ外交は、アジェンデが進める社会主義路線が、チリに大きな権益を持つアメリカ資本にとって、危険な路線であると断定、ひそかにその排除を画策した。アメリカの諜報機関CIAは反アジェンデ勢力の軍部に資金を援助、チリのトラック輸送業者にも資金を渡してストを行わせるなどの工作を行ってアジェンデ政権を追い込んでいった。

参考 アジェンデ大統領の死因

 1973年のチリ軍事クーデターで死亡したアジェンデ大統領の死因は、軍によって殺害されたとされることが多かった。山川出版社『世界史小辞典』(2004年刊)も「アイェンデ」の項で、「73年9月軍事クーデターにより銃弾に倒れた。」とある。しかし、2011年7月の新聞報道によれば、アジェンデの死因は自殺であったことが判明したという。以下その記事の引用。「南米チリで1973年、軍事クーデターの際に死亡した故アジェンデ大統領(当時)は、自殺だったことが19日、確定した。司法当局が今年5月、遺体を発掘し、外国の専門家に法医学的な分析を求めた結果、意見が一致した。アジェンデ氏は70年、南米で初の選挙を経た社会主義政権を発足させた。73年9月のクーデター時、軍に殺された疑惑もあった。(サンパウロ=平山亜理)」<朝日新聞2011年7月21日朝刊・国際面>
印 刷
印刷画面へ