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ニクソン

アメリカ合衆国第37代大統領(1969年就任)。ベトナム戦争を拡大、収束に苦しみ、中国と接近。また財政難に苦しみ金とドルの交換停止に踏み切る。1974年、ウォーターゲート事件で任期満了を待たず辞任した(任期途中で辞任した唯一の大統領)。

ニクソン

Richard Nixon 1913-1994

 ニクソンは第二次世界大戦後のアメリカ合衆国共和党の保守派として活躍した政治家。第37代アメリカ大統領(在任1969-74)。まず1947年に上院議員となり、マッカーシズムの時流に乗り、反共の闘士として知られ、1953年にアイゼンハウアー大統領の副大統領となった。1959年には副大統領として訪ソし、フルシチョフと台所論争(アメリカの電化された家庭での消費生活を自賛、フルシチョフが反論した)を展開したことは有名。

左派攻撃で台頭

 ニクソンはカリフォルニアの中流よりもやゝ低いという白人農家に生まれ、苦学して地方の大学を卒業、弁護士を目指した。ケネディのようや東部の上層社会(エスタブリッシュメント)出身者には常に敵意を抱いていたと言われている。政界に進出したのは、ルーズヴェルト・トルーマンと続いた民主党政権のニューディールによって中産白人層は被害を被ったという意識だった。地域の民主党候補を選挙で落選させることが必要だ、と考えるようになったためで、次第にその弁舌が共和党に認められ、自ら議員に立候補することとなった。共和党はアメリカ人の自主自立の精神を大事にしているのに対し、民主党の政策は経済の国家統制や社会保障の重視など、そのまま行けばアメリカが社会主義国になってしまうのではないか、と恐れたのが動機だった。

Episode 「ピンクレディー」攻撃

 ニクソンの手段は相手候補を何が何でも反米的な共産主義者だ、と攻撃することだった。それによって大衆受けを狙うという手法は常に見られたが、典型的な例に「ピンクレディー※」攻撃がある。1950年のカリフォルニアの上院議員選挙で対立候補のヘレン=ダグラスに対し、彼女は共産主義者だと攻撃した。事実無根の言いがかりだったが、彼女の議会での投票が共産主義者を自認する議員と同じ傾向があるというもっともらしいデータを根拠にしていた。ニクソンは、彼女は共産主義者でないかもしれないが、赤ではないが限りなく赤に近い女、「ピンクレディー」だ、と決めつけたのだ。ダグラスは議会投票の集計をニクソンが操作していると反論したが、マスコミはおりからマッカーシズムの赤狩り旋風がハリウッドに吹き荒れていたことと結びつけて、彼女はハリウッドのピンクや赤と同じ色に染まっていると書いた。選挙結果はニクソンの勝利に終わった。
※余談だが、ピンクレディーと言えばわれわれはミーとケイの二人組を思い出す。このふたりが人気絶頂の1979年、突如アメリカ進出をめざし日本を離れた。アメリカではその歌と踊りは結構人気が出たが、長期契約には至らず帰国しなければならなかった。ディブ・スペクターによれば、デュオ名がアメリカで敬遠されたためだという。アメリカではピンクレディーとは赤みがかった女性、つまり共産主義シンパの女性(アクティヴな)を意味するからだ。<wikipedia のピンクレディーの項を参照>

マッカーシズムと距離を置く

 ニクソンのこの強引な手法は一方で「狡猾(トリッキー)なディック(ニクソンの愛称)」というあだ名を頂戴することともなったが、共和党の中で一目置かれる存在となり、1953年に大統領となったアイゼンハウアーによって副大統領に抜擢された。その立場は一貫して右派であったが、副大統領となってからは、過激な側面は影をひそめ、マッカーシーからも距離をおくようになった。マッカーシーの強引な共産主義者追及は軍や国務省内部にも及んだが、次第に虚構であることが暴露され、1954年には上院でマッカーシ非難決議が出されて沈静化した。かつてはマッカーシーの僚友であったニクソンは批判者の側に廻っていたので、難を逃れることになった。

1968年 大統領選挙

 1960年の大統領選挙では民主党のケネディに敗れた。それはこの時からはじまったテレビ討論で、若く弁舌爽やかなケネディに対して、ニクソンには魅力を訴えるメディア戦術が欠けていたためだといわれた。一時は政界から身を退くと思われたが、幸運がめぐってきた。それはケネディ政権を継承したジョンソンが、ベトナム戦争を本格化させたにもかかわらずベトコンの激しい抵抗を受けて泥沼化した戦況を好転させることができず、人気を落としたためであった。若者を中心にベトナム反戦運動が激化し、同時に人種問題も混迷と運動の過激化が深刻となり、1968年のキング牧師の暗殺が起こった。そんな中、民主党の次期大統領候補として人気の高かったロバート=ケネディ候補(ケネディの弟)も暗殺され、代わりに立ったハンフリーの人気がいまいちという状況となり、ニクソンは再び共和党候補の指名を受け、1968年秋の大統領選挙本選でハンフリーに勝利した。
 ニクソンの勝利は、民主党ジョンソン政権の下でベトナム戦争が泥沼化し、和平への展望を開けないことを批判し、北ベトナムとの「名誉ある和平」を実現すると表明したことによる。名誉ある和平とは、これ以上アメリカ軍の犠牲を出さないために戦闘を停止、そのためには北ベトナム側にアメリカ軍の撤退を約束する代わりに南ベトナム政府の存在を認めさせるということを和平条件にする、ということだった。また国内の反戦運動が黒人暴動と結びついて治安が悪化したことを民主党政権の失政と攻撃し、「秩序と安定」を取り戻すため取り締まりを強化する、とも約束した。
 この時の大統領選挙では共和党ニクソン、民主党ハンフリーの他に南部諸州を拠点とした右翼のアメリカ独立党ウォーレス元アラバマ州知事も立候補していたため、ニクソンは右寄りより中道であるという立ち位置に立つことができ、それも有利に作用し、反民主党の票がニクソンに集まったと考えられる。

ベトナム戦争を拡大

 1969年1月に大統領に就任するとキッシンジャーを外交問題特別補佐官に任命し、6月8日、ベトナムの米軍を8月までに段階的に撤退させることを表明、さらに1969年7月25日、外交方針の原則としてニクソン=ドクトリンを発表、海外への過度な軍事介入の抑制に転じ、対共産圏戦略で同盟諸国の肩代わりの強化を要求した。このベトナム戦争解決策は国民の支持を受け、ニクソン人気は高まった。
 しかし、ベトナム和平のためのパリ和平会談ではベトナム側との交渉が進展せず、戦争は膠着状態が続いた。それはアメリカ軍を撤退させた後も南ベトナム政府を継続させようとするアメリカに対し、あくまでベトナムの統一を前提とする北ベトナムはそれを認められなかったためであった。南ベトナム政府の継続を譲れない線だと考えたニクソンは、和平交渉を有利に展開させることを狙い、1970年4月カンボジア侵攻1971年2月にはラオス空爆を行って北ベトナムのベトコン支援を断たとうとした。こうして、ベトナム戦争はベトナムだけではなく、インドシナ全域に戦線を拡大させることとなり、アメリカだけでなく世界的なベトナム反戦運動を再燃させることになった。

ドル=ショック

 しかしニクソン政権の下で、ベトナム戦争の経済的負担のつけは厳しく、アメリカ経済は深刻な危機に陥った。財政難に陥ったことが要因となってドルが下落し、固定相場制の下で金の流出が続いたため、ニクソンは1971年8月、ドル防衛策として金とドルの交換停止に踏み切った。これはアメリカとの貿易に依存していた日本など多くの国に衝撃を与え、ドル=ショック(ニクソン=ショック)と言われた。これによって世界経済をアメリカのドルが支え、ドルを基軸通貨とするブレトン=ウッズ体制は崩れ、世界経済は変動相場制に移行すると共に、アメリカ一極体制から、西ヨーロッパ(ドイツ)・日本を加えた三極構造へと移行する。

電撃的中国訪問

 ベトナム戦争の有利な終結を模索するニクソン大統領の下で、キッシンジャー特別補佐官は積極的な外交を展開、1972年2月は電撃的にニクソン訪中を実現させ国交回復の道筋をつけて世界を驚かせた。ニクソンの狙いは中国と結ぶことで北ベトナムに圧力を加えることであり、中国の毛沢東も、長引くプロレタリア文化大革命中ソ対立の打開の見通しがない中、アメリカとの接近を歓迎したのだった。

デタントの動き

 70年代、世界的な動きは緊張緩和(デタント)へと向かい、1972年にはニクソン自身がモスクワを訪問してブレジネフと会談し、1972年5月26日戦略兵器制限交渉(第1次)(SALT・Ⅰ)に最終的に合意し、署名した。訪中、軍縮外交で成果を上げたニクソンは、1972年秋の大統領選挙で再任され、残るベトナム和平の実現に取り組む足場を築いた。

ベトナム撤退

 ベトナム戦争ではカンボジア侵攻も効果がなく、南べトナム解放民族戦線の攻勢がますます激しくなり、国内のベトナム反戦運動も続いていた。ニクソンは、パリ和平会談での和平実現に踏みきり、ようやく1973年1月27日ベトナム(パリ)和平協定を締結、ベトナムから1973年3月29日までにアメリカ軍を撤退させた。しかし、インドシナではベトナムの南北の内戦がさらに続き、カンボジア内戦ラオス内戦、さらに中越戦争と混迷が続くことになる。

ウォーターゲート事件

 毛沢東、ブレジネフと渡り合って、ベトナム撤兵を成し遂げたという外交の成功により、ニクソンは政権の浮揚をはかろうとした。しかしそれは、政権内の暗部が暴かれたことによってもくろみ通りに行かなかった。
 1972年6月17日、次期大統領選挙運動中に、民主党本部に侵入して逮捕された者が、ニクソン陣営による盗聴目的であったことが発覚した。1974年までにこのウォーターゲート事件にニクソン大統領本人の関与が明らかになり、議会による大統領弾劾裁判が必至となった。やむなくニクソンは1974年8月8日、国務長官キッシンジャーに辞任届を提出、任期途中で辞任した。アメリカの大統領で任期途中に辞任したのはニクソンが初めてであった。ニクソン辞任に伴い、憲法の規定により、副大統領のフォードが昇格し、大統領に就任した。

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