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プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

1920年、マックス=ウェーバーの主著。西欧キリスト教世界と資本主義の関係を分析し、精神的な結びつきを明らかにした。

 1920年に発表されたマックス=ウェーバーの主著。西ヨーロッパにおいて勃興した資本主義経済は、いかなる内的、心理的な機動力を持っていたのか。「資本主義の精神」は、禁欲的プロテスタンティズム、その中のカルヴァンの思想の中核である予定説との歴史的関係を社会学的に追究した。この研究は、一連の「儒教と道教」「ヒンズー教と仏教」「古代ユダヤ教」などの宗教社会学の一部を為すものであった。なお、ここで問題とされる「資本主義」とは「近代資本主義」特に西ヨーロッパとアメリカの資本主義のことであり、「資本主義の精神」とは「倫理的な色彩をもつ生活の原則」<岩波文庫版p.45>を意味している。以下の要約は、岩波文庫版の大塚久雄訳および解説による。

問題の設定

 ウェーバーが問題にしたのは、近代資本主義は「利潤追求」の営みであるが、それが生まれたキリスト教ヨーロッパは、むしろ利潤追求が否定されていた、という点であった。中世カトリック教会では暴利の取り締まりとか利子禁止などの商業上の倫理的規制を設けており、さらに宗教改革後のイギリスやオランダ、フランス、アメリカなどの禁欲的プロテスタンティズムでは商人の暴利は最大の悪事であるととされ、厳しく取り締まられていた。なぜこのようなところで近代資本主義が生まれたのだろうか。ヨーロッパでは営利以外のなにものか、とりわけ営利を敵視するピューリタニズムの経済倫理(世俗的禁欲)が、逆に歴史上、近代の資本主義というまったく新しい社会事象を生み出されるさいに、なにか大きな貢献をしているのではないか、と言うのが問題設定である。<岩波文庫版 大塚久雄解説による>

「天職」と「世俗内禁欲」

 ベンジャミン=フランクリンを例にとり、「正当な利潤を》Beruf《「天職」として組織的かつ合理的に追求するという心情」が、もっとも適合的な形態として現われ、また逆にこの心情が資本主義的企業のもっとも適合的な精神的推進力となった」<岩波文庫版p.72>と説明している。この「天職」(岩波文庫の旧版、梶山訳では「職業」とされていた)Beruf とは、ルターが使った言葉で、「神の召命と世俗の職業」という二つの意味がこめられおり、われわれの世俗の職業そのものが神からの召命(Calling)だという考えを示している<大塚解説 p.397>

カルヴィニズム

(引用)さて、16、17世紀に資本主義の発達がもっとも高度だった文明諸国、すなわちオランダ、イギリス、フランスで大規模な政治的・文化的な闘争の争点となっていた、したがってわれわれが最初に立ち向かわなければならない信仰は、カルヴィニズムだ。当時この信仰のもっとも特徴的な教義とされ、また一般に、今日でもそう考えられているのが「恩恵による選び」の教説(予定説)である。<岩波文庫版p.144>
 ピューリタニズムの宗教意識は、カトリック信徒がとらわれていた救いの手段としての「呪術」を排除した。カトリック信徒は「悔い改めと懺悔によって司祭に助けを求め、彼から贖罪と恩恵の希望と赦免の確信を与えらる」ことによって内面的な緊張からまぬがれることができたが、「カルヴィニズムの神がその信徒に与えたのものは、個々の善き業ではなくて、組織にまで高められた行為主義だった。」<岩波文庫版p.196>
 キリスト教的禁欲は、非行動的な禁欲ではなく、エネルギーのすべてを目標達成のために注ぎ込む行動的禁欲であり、カトリックの修道院内での「祈り働け」の生活に見られるが、そのような「世俗外的禁欲」を「世俗内的禁欲」に転換させたのがルターの「天職」の思想であった<大塚解説 p.401>。さらにカルヴィニズム(特にイギリスのピューリタニズム)では、「神のためにあなたがたが労働し、富裕になることはよいことなのだ」(バクスターの言葉)とされ、怠惰は罪悪であり、隣人愛に反することとされるようになった。<岩波文庫版p.310-311>

現代資本主義にたいする批判的予言

 ウェーバーの議論は西ヨーロッパとアメリカで発展した近代資本主義の精神的な支柱が、カルヴィニズムの天職と世俗内禁欲(今与えられている職業に誠実に努めること)にあったと理解できる。その論証は、カトリック、ルター派、カルヴァン派さらにそこから派生したメソジストやクェーカー教徒などの教説に及んでおり、細部は難解な部分が多い。しかし、巻末の次の部分は、アメリカ発の新自由主義資本主義の暴走という現在(2008年)の資本主義の混迷を予言しているようで興味深い。
(引用)営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的な意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果、スポーツの性格をおびることさえ稀ではない。将来この鉄の檻の中に住むものは誰なのか、そして、その巨大な発展が終わるとき、まったく新しい預言者たちが現れるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起きるのか、それとも、そのどちらでもなくて、一種の異様な尊大さで粉飾された機械的化石と化することになるのか、まだ誰にもわからない。それはそれとして、こうした文化発展の最後に現れる「末人たち」にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、とうぬぼれるだろう」と。<大塚久雄訳 岩波文庫版 p.366>
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マックス=ウェーバー
大塚久雄訳
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
岩波文庫版