第3章3節 中国の古代文明
【問】次の文をよく読んで、下記の設問に答えなさい。
東アジアは、日本列島を含む、中国とその周辺の朝鮮半島・ベトナム北部などからなる地域である。この地域は、西方を砂漠や山脈でさえぎられており、そのうちの中国では、独自で高度な文明を数千年にわたって途切れることなく発展させてきた。黄河文明が形成された北部の華北では、雨量が少なく、( 1 )などの乾燥地作物が早くから栽培されてきた。また、( 2 )とよばれる長江(揚子江)流域の華中とその南の華南及び島|興部は、ともに比較的温暖で雨量が多く、( 3 )が発展した。朝鮮半島・日本・ベトナム北部などの周辺地域でも、中国農耕文化の影響をうけながら独自の文化が成立し、発展した。また、中国文化は、早くから内陸アジアの諸民族の遊牧文化と交流し、さらにはオアシスの道・( 4 )・海の道を通じて、西方の異質の文化とも接触した。オアシスの道は、のちに( 5 )と呼ばれた。
具体的にみてみると黄河中流域に住みついた人びとは前5000~前4000年ころ、豚・犬・鶏を家畜とし、( 1 )など雑穀を中心とする農耕文化を発達させた。素焼きの淡紅色の土器面に赤・白・黒などで文様をほどこした( 6 )を使用していたこの文化は、( 7 )と呼ばれる。その後下流域では、(ア)技術のすすんだ( 8 )がさかんにつくられるようになり、そのほかに灰陶もあらわれた。特徴的な器形として、 3本足の鼎や鬲などの( 9 )があり、その形状はのちの青銅器に影響をあたえた。
( 8 )や灰陶が使用されていた文化を( ⑮ )という。前2000~前1500年ころのことである。( 10 )の終わりのころになると黄河の中・下流域にまわりを高くて厚い土の壁で防禦した多くの集落(邑)が生まれた。やがて前16世紀ごろ、これら多くの邑を支配する殷(商)王朝が出現した。その後期を代表する遺跡が( 11 )である。 ( 11 )からは、大型の建築跡や巨大な王墓をはじめ、亀甲・獣骨にきざまれた( 12 )などが発見されている。これによると殷代では、典型的な(イ)神権政治がおこなわれていたことが知られる。
( 13 )ごろになると、西方にあって殷に服属していた邑のひとつ、周が殷を滅ぼして都を( 14 )においた。周王は、一族や功臣を諸候に任命してその地をおさめさせ、かわりに貢納と軍役の義務を課した。王や諸侯のもとには、卿・大夫・士とよばれる家臣団がいて、卿や大夫には邑があたえられた。(ウ)このような政治制度を周の封建制とよぶ。周は、王一族の争いと周辺民族の侵入によって、前770年に都を東の( 15 )に遅した。東遷以前を西周、以後を東周とよび、また東周の前半を(エ)春秋時代、後半を(オ)戦国時代という。
- 設問1
- 文中の括弧( 1 )~( 15 )に適当な語句を記入しなさい。
- 設問2
- 下線部(ア)に関して、( 8 )は( 6 )と比べてどのように技術がすすんでいたか、二つ挙げなさい。
- 設問3
- 下線部(イ)に関して、神権政治を説明しなさい。
- 設問4
- 下線部(ウ)に関して、西洋中世の「封建制度」(フューダリズム)との違いを簡潔にのべなさい。
- 設問5
- 下線部(エ)に関して、この時代名の由来について記しなさい。
- 設問6
- 下線部(オ)に関して、戦国の七雄とは何か、説明しなさい。
解 答 解答欄ごとにクリック。全解答を表示するには右上の「全解答表示」をクリック。クリアは左上のメニューで選択。
問1
1 | アワ | 2 | 江南 | 3 | 稲作 | 4 | 草原の道 | 5 | 絹の道 |
6 | 彩文土器 | 7 | 仰韶文化 | 8 | 黒陶 | 9 | 三足土器 | 10 | 竜山文化 |
11 | 殷墟 | 12 | 甲骨文字 | 13 | 前11世紀 | 14 | 鎬京 | 15 | 洛邑 |
※別解:1:ひえ、キビ 5:シルクロード 6:彩陶
問2 | ろくろの使用。1000度以上の高温での焼成。 |
問3 | 農事・軍事などの決定にあたって卜辞による神の意志に従うなど、王の宗教的な権威によって行われる、祭政一致の政治。 |
問4 | 西洋の封建制度の土地を仲立ちとする主従関係は個人間の関係で双務的であるが、周の封建制は宗法によって結ばれた血縁集団である宗族間の関係が基本である。 |
問5 | 孔子が編纂したとされる魯の国の年代記『春秋』に由来する。 |
問6 | 戦国時代に独立した教国となった、韓・魏・趙・斉・燕・楚・秦の七ヵ国を言う。 |