2013年度 詳説世界史 準拠ノート
Text p.81
第3章 内陸アジア世界・東アジア世界の形成
2節 北方民族の活動と中国の分裂
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ア.北方民族の動向
■ポイント 4~5世紀が地球的な規模での民族移動の時期であったことを理解する。
A 匈奴 の分裂 1世紀の半ば頃 東匈奴が南北に分裂。
漢民族は遊牧生活を送っていたa 北方民族 をb 胡 と呼んだ。
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B 五胡 の活動活発化 2~3世紀ごろ、北方民族が華北に移住し、後漢などの傭兵として活動。
・a 匈奴 :南匈奴の劉淵が八王の乱の際に挙兵し、304年に漢を建国。
・b 羯 :匈奴の別種。後に十六国の一つ後趙を建国。
・c 鮮卑 :モンル高原東部の遊牧民。ツングース系・トルコ系などの説がある。後に拓跋氏が北魏を建国。
・d 氐 :陝西・甘粛地方のチベット系半農半遊牧民。十六国の前秦、後涼を建国。
・e 羌 :青海地方のチベット系遊牧民。十六国の一つ後秦を建国。後には西夏を建国。
・b 羯 :匈奴の別種。後に十六国の一つ後趙を建国。
・c 鮮卑 :モンル高原東部の遊牧民。ツングース系・トルコ系などの説がある。後に拓跋氏が北魏を建国。
・d 氐 :陝西・甘粛地方のチベット系半農半遊牧民。十六国の前秦、後涼を建国。
・e 羌 :青海地方のチベット系遊牧民。十六国の一つ後秦を建国。後には西夏を建国。
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C 4世紀 中国内部の政治的混乱に乗じ、北方民族が華北で自立し、a 五胡十六国 が興亡。
・4~5世紀 ユーラシア東部では後漢滅亡後のb 三国時代から五胡十六国、南北朝の分裂・動乱と民族移動 、
西部ではローマ帝国滅亡後のc フン人の西進とゲルマン民族の大移動 がはじまる。=d 民族大移動の時代
西部ではローマ帝国滅亡後のc フン人の西進とゲルマン民族の大移動 がはじまる。=d 民族大移動の時代
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イ.分裂の時代
■ポイント 約360年に及ぶ中国の分裂の時代である魏晋南北朝時代の概要を知る。
(1)三国時代から晋の統一と南北朝分裂へ
(1)三国時代から晋の統一と南北朝分裂へ
A 後漢末の動乱 a 黄巾の乱 で後漢が衰え,各地の豪族が割拠。
・華北のb 曹操 、江南のc 孫権 、四川のd 劉備 が有力になる。
208年 ▲e 赤壁の戦い 曹操が、孫権・劉備の連合軍に敗れ、天下三分の形勢となる。
208年 ▲e 赤壁の戦い 曹操が、孫権・劉備の連合軍に敗れ、天下三分の形勢となる。
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B 三国時代 220年 曹操の子a 曹丕 が帝位につき(文帝) 、b 魏 を建国。都c 洛陽 。
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・孫権は長江下流(江南)にd 呉 を建国。都はe 建業 (現南京)。
・劉備は四川にf 蜀 を建国。都g 成都 。関羽、張飛、諸葛孔明らが活躍したが魏に滅ぼされる。
・劉備は四川にf 蜀 を建国。都g 成都 。関羽、張飛、諸葛孔明らが活躍したが魏に滅ぼされる。
解説
小説や映画、漫画やゲームでおなじみの『三国志』はこの時代の英雄・豪傑を主人公とした物語であるが、本来の『三国志』は晋の陳寿が著した正史の一つで、通俗的な読み物ではない。私たちが普通に『三国志』と言っているのは、三国時代の史実を元にして面白い話が元代に生まれ、明代に羅貫中によって現在のような形にまとめられた『三国志通俗演義』のこと。残念ながら世界史の授業では、関羽も張飛も諸葛孔明も出てこない。
三国時代 ○が三国、□が五胡
a 魏 b 呉c 蜀
d 鮮卑 e 匈奴
f 羯 g 羌
h 氐
i 洛陽 j 建業
k 成都 l 楽浪
m 帯方 n 高句麗
o 倭 p 赤壁
q 五丈原
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C 晋 の統一
265年 魏の武将a 司馬炎 、禅譲を受け建国(武帝)。都は洛陽。
280年 b 呉 をほろぼし中国統一(西晋)。
280年 b 呉 をほろぼし中国統一(西晋)。
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D 八王の乱 290~306年
・司馬氏一族の諸王が互いに抗争する。
それぞれが北方民族=e 五胡 を傭兵とする。
→ 北方民族が中国内地に入り、各地で自立する。
それぞれが北方民族=e 五胡 を傭兵とする。
→ 北方民族が中国内地に入り、各地で自立する。
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E 五胡十六国 304~439年
304年 a 南匈奴 の劉淵、山西で挙兵。漢を建国(後の前趙)。
311年 ▲b 永嘉の乱 匈奴が洛陽を攻略、ついで316年、長安も陥落し、西晋滅亡。
以後、華北に16の王朝が交代。 → c 華北に遊牧民の習慣(粉食や椅子など) が広がる。
311年 ▲b 永嘉の乱 匈奴が洛陽を攻略、ついで316年、長安も陥落し、西晋滅亡。
以後、華北に16の王朝が交代。 → c 華北に遊牧民の習慣(粉食や椅子など) が広がる。
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F 東晋 の成立
317年 晋の一族a 司馬睿 が江南に逃れ建国。都b 建康 (現南京)。
→ 漢人が長江下流のc 江南 に移住し、開発進む。漢文化も華北から江南にひろがる。
▲351年 氐の前秦が有力になる。中国統一を目指して南下。383年 淝水の戦いで東晋に敗れ、衰える。
→ 漢人が長江下流のc 江南 に移住し、開発進む。漢文化も華北から江南にひろがる。
▲351年 氐の前秦が有力になる。中国統一を目指して南下。383年 淝水の戦いで東晋に敗れ、衰える。
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G 北魏 の台頭 鮮卑の中の一部族、a 拓跋氏 が有力になる。
386年 拓跋珪が道武帝として即位、建国。
398年 b 平城 (現大同)を都とし、部族制を廃止し、漢人の統治機構を導入。
▲同じ頃、モンゴル高原ではモンゴル系の柔然、青海地方ではチベット系の吐谷渾がそれぞれ有力であった。
398年 b 平城 (現大同)を都とし、部族制を廃止し、漢人の統治機構を導入。
▲同じ頃、モンゴル高原ではモンゴル系の柔然、青海地方ではチベット系の吐谷渾がそれぞれ有力であった。
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(2) 南北朝時代 439~589年 150年間、中国が南北に分裂した時代
・北朝 北方民族の王朝が興亡
・北朝 北方民族の王朝が興亡
A 北魏 の華北統一 439年 a 太武帝 が華北を統一。
・道教を国教としb 仏教弾圧 (後出)。
次の文成帝は仏教保護に転じ、雲崗に石窟寺院をつくる。(後出)
494年 c 孝文帝 都をd 洛陽 に移す。竜門に石窟寺院をつくる(後出)。
・e 均田制 土地の公有制度(次項参照)。農耕民社会の安定をめざすもので、後の隋唐に継承される。)
f 三長制 5家を隣・5隣を里・5里を党とし、それぞれに長をおく村落制度。
・g 漢化政策 を推進。制度、服装、言語などを遊牧民風から漢民族風に改める。
→ 反発する軍人が反乱を起こす。
次の文成帝は仏教保護に転じ、雲崗に石窟寺院をつくる。(後出)
494年 c 孝文帝 都をd 洛陽 に移す。竜門に石窟寺院をつくる(後出)。
・e 均田制 土地の公有制度(次項参照)。農耕民社会の安定をめざすもので、後の隋唐に継承される。)
f 三長制 5家を隣・5隣を里・5里を党とし、それぞれに長をおく村落制度。
・g 漢化政策 を推進。制度、服装、言語などを遊牧民風から漢民族風に改める。
→ 反発する軍人が反乱を起こす。
解説
六鎮の乱 華北を統一した北魏は、鮮卑族と土着の漢人たち融合させて、万里の長城の北に六つの基地を設け、北方の守りを固めた。それを六鎮(りくちん)という。孝文帝が漢化政策を進め、都を洛陽に移すと、都に従った鮮卑族は漢化が進み、次第に軟弱な貴族文化に染まっていった。それに対して胡人の気風を残す北方六鎮の武人たちは不満を持つようになった。孝文帝の死後、帝位をめぐって都の貴族たちが争ううちに、523年、六鎮の武人がついに反乱を起こした。これが「六鎮の乱(りくちんのらん)」と言われる戦乱で550年まで続き、北魏を分裂させる要因となった。
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B 北魏の分裂 538年 内紛からa 東魏 とb 西魏 に分裂。
▲西魏で軍事制度のc 府兵制 が始まる(隋唐が継承)。東魏はd 北斉 に、西魏はe 北周 に替わる。
解説
北魏の分裂 六鎮の乱の中で台頭したのが、漢人の武将高歓と鮮卑の武将宇文泰だった。二人はそれぞれ北魏王室の皇子を建てて皇帝としたため、538年に北魏は東西に分裂した。高歓が孝静帝を立て鄴(ぎょう)を都としたのが東魏、宇文泰が文帝を擁して長安を都としたのが西魏である。いずれも皇帝は名ばかりで実権は武将にあったので、東魏では高歓の子の高洋が即位して北斉となり、西魏では宇文泰の子の宇文覚が即位して北周となった。北斉と北周は華北の主導権をめぐって激しく争ったが、西魏の府兵制を継承した北周が、次第に軍事的な優位を占めるようになった。
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・577年 e 北周 が北斉を併合し、華北を統一。→ 581年 北周の武将楊堅が隋を建国。(次節へ)
南朝 漢民族の王朝が続く。
Text p.83
A 宋 420年 東晋の武将a 劉裕 が実権を握り建国。※後の宋と区別すること。
以後、b 斉 →c 梁 →d 陳 と漢民族の王朝が続く。都はいずれもe 建康 (現南京)。
ポイント ・貴族の勢力が強く皇帝権力は弱かった。f 長江流域の開発が進み生産力発展し、人口も増えた。
ポイント ・貴族の勢力が強く皇帝権力は弱かった。f 長江流域の開発が進み生産力発展し、人口も増えた。
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・南北朝の統一 589年 北朝の北周に代わったg 隋 が南朝の陳を滅ぼし、中国の統一を復活させた。
・3世紀の三国時代からの約400年間を、h 魏晋南北朝 と総称する。
・3世紀の三国時代からの約400年間を、h 魏晋南北朝 と総称する。
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ウ.社会経済の変化
■ポイント 分裂と動乱の時代だった魏晋南北朝時代に中国の社会はどのように変質したか、考える。
A 貴族階級の形成 後漢末からa 豪族 の力強まる。
・官吏登用制度の変化 漢のb 郷挙里選 から、三国時代の魏のc 九品中正 に変わる。
= 地方の州郡毎の役人である中正官が、人物を九等級にわけて中央政府に推薦する。
→▲d 「上品に寒門無く下品に勢族なし」 といわれ、豪族が上級官僚を独占する結果となる。
→ 地方豪族が中央政府に進出し、政治権力を握りe 門閥貴族 を形成する。
・官吏登用制度の変化 漢のb 郷挙里選 から、三国時代の魏のc 九品中正 に変わる。
= 地方の州郡毎の役人である中正官が、人物を九等級にわけて中央政府に推薦する。
→▲d 「上品に寒門無く下品に勢族なし」 といわれ、豪族が上級官僚を独占する結果となる。
→ 地方豪族が中央政府に進出し、政治権力を握りe 門閥貴族 を形成する。
解説
3世紀の中ごろ、九品中正制が行われていた晋で、九品の上の品等にされた人々には寒門=貧しい家の出身者は無く、下の品等とされた人々には勢族=有力者がいない、という意味。つまり、上品は有力者=豪族に占められている、ということである。魏から始まる九品中正が本来の人材登用の目的からはずれ、西晋のころには豪族が中央の官僚になることが多くなり、門閥貴族となっていったことを示している。
B 土地制度の変化 各王朝は、豪族の大土地所有拡大と農民の没落・奴隷化の防止のための政策をとった。
・三国時代・魏のa 屯田制 :曹操が実施。富豪が耕作者の集団に官有地を耕作させる制度。
・西晋の▲b 占田法 ・ 課田法 :武帝が制定。土地所有の制限と租税の確保をはかったものか。
→ 税制 戸調式:一戸ごとに税として絹・綿など現物を納められる。
・北魏のc 均田制 :孝文帝が定めた土地制度。隋唐の土地制度として継承される。
d 土地公有 の原則をたて、15歳以上の男に40畝、女に20畝の露田を給し、老年になれば返還させた。
= 大土地所有の制限は不十分で、豪族の貴族化は隋唐時代まで続く。
→ ▲東晋および南朝ではb 土断法 を施行。= 華北からの移住民をその地で戸籍に登録する。
・南朝の貴族は、b 荘園 を経営、自給自足的な田園生活を行うものも現れた。
・三国時代・魏のa 屯田制 :曹操が実施。富豪が耕作者の集団に官有地を耕作させる制度。
・西晋の▲b 占田法 ・ 課田法 :武帝が制定。土地所有の制限と租税の確保をはかったものか。
→ 税制 戸調式:一戸ごとに税として絹・綿など現物を納められる。
・北魏のc 均田制 :孝文帝が定めた土地制度。隋唐の土地制度として継承される。
d 土地公有 の原則をたて、15歳以上の男に40畝、女に20畝の露田を給し、老年になれば返還させた。
= 大土地所有の制限は不十分で、豪族の貴族化は隋唐時代まで続く。
解説
均田制は隋と唐でも継承され、さらに古代日本の班田収授法のもとになった土地制度であるが、北魏の制度には大きな特色があった。それは、女性に男性の半分、奴婢に良民と同額、さらに耕牛にまで土地が支給されたことである。均田制はもともと土地公有の原則を導入して、豪族の大土地所有を制限し、農民からの租税収入を確保することが狙いであったが、奴隷や耕牛にも土地が支給されたことは、奴隷所有者である豪族にとって有利であり、豪族優遇であったといえる。C 江南の開発 a 江南 地方=長江の中・下流。華北からの人口流入により人口増加し、開発進む。
→ ▲東晋および南朝ではb 土断法 を施行。= 華北からの移住民をその地で戸籍に登録する。
・南朝の貴族は、b 荘園 を経営、自給自足的な田園生活を行うものも現れた。
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エ.魏晋南北朝の文化
Text p.84
■ポイント 分裂と動乱の時代に、中国の文化はどのように変質または発展したかを考える。
1 仏教 の流布
A 仏教の受容 後漢の1世紀ごろ a 大乗仏教 が西域を通じ、中国に伝えられる。
→ 4世紀後半 中国の動乱、政治的不安定のなかで、社会一般に広がる。
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B 西域・インドとの仏僧の往来 4~5世紀 華北の五胡十六国、江南の東晋の時代に盛んになる。
a 仏図澄 310年 西域の亀茲から来朝し洛陽で布教。
→ 弟子の道安、戒律を作る。 → 東晋の慧遠、浄土教を始める。
b 法顕 東晋の僧。399~412年 グブタ朝インドに行きc 『仏国記』 を著す。
d 鳩摩羅什 亀茲の人で父はインド人。5世紀はじめ 長安で布教、仏典の翻訳を進める。
→ 弟子の道安、戒律を作る。 → 東晋の慧遠、浄土教を始める。
b 法顕 東晋の僧。399~412年 グブタ朝インドに行きc 『仏国記』 を著す。
d 鳩摩羅什 亀茲の人で父はインド人。5世紀はじめ 長安で布教、仏典の翻訳を進める。
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C 最初の仏教弾圧
・5世紀 a 北魏 の太武帝、b 道教 を国教とし、446年に仏教弾圧(c 法難(廃仏) )が起こる。
→ ▲唐代まで仏教弾圧が繰り返され、 三武一宗の法難 と総称される。
→ 次の文成帝は仏教保護に転じる。
→ ▲唐代まで仏教弾圧が繰り返され、 三武一宗の法難 と総称される。
→ 次の文成帝は仏教保護に転じる。
解説
北魏の太武帝が仏教を弾圧したのは、自らが道教を信仰したためであるが、背景には漢民族を統治するには外来宗教の仏教を保護するより、漢民族から生まれた道教を保護した方が都合がいいという判断があった。仏教はまず北方民族の中で広がっており、漢民族からは外来宗教とみられていた。その後も仏教と道教は権力の保護をめぐって対立する。なお、「三武一宗の法難」とは、446年の太武帝、574・575年の北周の武帝、845年の唐の武宗、955年の後周(五代十国の一つ)の世宗の時の仏教弾圧を言う。
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D a 石窟寺院 の造営
b 敦煌 :西域の東端。4世紀から唐代に及び塑像の仏像、壁画が多数作られる。
c 雲崗 :文成帝が平城(大同)郊外に建造。ガンダーラ・グプタ様式の影響が強い。
d 竜門 :孝文帝の洛陽遷都に伴い、洛陽郊外に建造。中国独自様式をもつ石仏。
b c d
c 雲崗 :文成帝が平城(大同)郊外に建造。ガンダーラ・グプタ様式の影響が強い。
d 竜門 :孝文帝の洛陽遷都に伴い、洛陽郊外に建造。中国独自様式をもつ石仏。
b c d
解説
中国で石窟寺院と石仏が流行したのは、廃仏の際に木造建築のお寺や木彫の仏像だと焼かれてしまうことを避けたからである。北魏の太武帝の時の廃仏の後、仏教は復興するが、文成帝の時には都の平城(大同)の郊外の雲崗、孝文帝の時には遷都した先の洛陽の郊外の竜門にそれぞれ石窟寺院がつくられ、石仏がまつられた。なお敦煌は西域の入り口にあり、砂漠地帯なので最初から石窟寺院としてつくられたが、仏像は塑像(粘土作り)である。また、雲崗の仏像はインドの影響が強く、竜門になると中国風の独自性が強くなることにも注目しよう。
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E 中国仏教の違い
・北朝=庶民に広がると共に国家仏教、護国鎮護の宗教として発達。
・南朝=貴族の個人的な信仰を中心とした貴族仏教、学問仏教として発達。6世紀前半、梁の武帝が保護。
・6世紀初め 達磨、インドから渡来(伝承)。 → 唐で、中国独自の禅宗に発展。
・南朝=貴族の個人的な信仰を中心とした貴族仏教、学問仏教として発達。6世紀前半、梁の武帝が保護。
・6世紀初め 達磨、インドから渡来(伝承)。 → 唐で、中国独自の禅宗に発展。
2 道教 の成立
・5世紀、民間信仰とa 神仙思想 を諸子百家のb 老荘思想(道家) に取り入れる。
・北魏のc 寇謙之 が新天師道をはじめ、国家宗教として教団の形成につとめる。
→ d 太武帝 に信任され、442年 北魏の国教となる。
さらに不老不死と現世の利益を説き、民衆に浸透する。道教の僧を道士、寺院を道観、経典を道蔵という。
・北魏のc 寇謙之 が新天師道をはじめ、国家宗教として教団の形成につとめる。
→ d 太武帝 に信任され、442年 北魏の国教となる。
さらに不老不死と現世の利益を説き、民衆に浸透する。道教の僧を道士、寺院を道観、経典を道蔵という。
3 魏~西晋の 貴族文化
a 竹林の七賢 阮籍・嵆康ら、儒教的な道徳を否定、自由な生き方を求める。
b 清談 の流行 c 老荘思想 の影響を受けた自由な議論が好まれた。
b 清談 の流行 c 老荘思想 の影響を受けた自由な議論が好まれた。
解説
魏から西晋にかけての3世紀ごろ、老荘思想の影響を受け、儒教倫理の束縛から離れた自由な議論を展開した阮籍らを竹林の七賢という。背景には三国の中で有力であった魏で、司馬懿が実権を握り、司馬昭、司馬炎と三代がかりで権力を簒奪して晋(西晋)を建国したという混乱があった。貴族の中にそのような政治の場面から身を避けて隠遁し、竹林に集まって酒を飲んだり、楽器を奏でたりしながら、きままに暮らす人々が現れた。彼らは権力者の司馬氏からの招聘も断り、自由に議論するを好んで「竹林の七賢」と称された。阮籍(げんせき)・嵆康(けいこう)・山濤(さんとう)・向秀(しょうしゅう)・劉怜・阮咸(げんかん)・王戎の七人を言うが、七人が同時に集まっていたということではない。彼らの議論は「清談」と言われ、以後の六朝の文化人の理想とされた。なおその中の嵆康は、魏の実力者司馬昭(司馬炎の父)によって死刑になっている。阮籍は名利を求めて近づく人物には白眼を持って迎え、清廉な人物は青眼を持って迎えたという「白眼視」の話で有名である。
4 六朝文化
・文化史上では建康を都としたa 呉 → 東晋 → 宋 → 斉 → 梁 → 陳 をb 六朝 という。
・特色 c 漢文化が継承され貴族文化が発展した。
・特色 c 漢文化が継承され貴族文化が発展した。
Text p.85
A 文 学:詩人 東晋のa 陶淵明(陶潜) 理想的な田園生活を謳う。その作品が「桃花源紀」。
宋のb 謝霊運 田園生活を謳う。
文人 c 昭明太子 (梁):『文選』を編集。
→ d 四六駢儷体 の文体が流行。
B 美 術:絵画 a 顧愷之 (東晋) b 『女史箴図』
書 c 王羲之 (東晋) 『蘭亭序』 その子 王献之
C 学術 ・歴史書:西晋の陳寿、『三国志』を編纂。
・地理書:酈道元の『水経注』
・技術書:賈思勰のa 『斉民要術』 (中国最古の農業書)。
・医 学:b 『傷寒論』 (医学書)
b 『女史箴図』 (大英博物館蔵)
文人 c 昭明太子 (梁):『文選』を編集。
→ d 四六駢儷体 の文体が流行。
B 美 術:絵画 a 顧愷之 (東晋) b 『女史箴図』
書 c 王羲之 (東晋) 『蘭亭序』 その子 王献之
C 学術 ・歴史書:西晋の陳寿、『三国志』を編纂。
・地理書:酈道元の『水経注』
・技術書:賈思勰のa 『斉民要術』 (中国最古の農業書)。
・医 学:b 『傷寒論』 (医学書)
まとめ 1. 動乱期にあたり多様な思想や文化が生まれ、儒教に代わり仏教と道教が盛んになった。
2. 貴族社会が形成され、自由で自主的な思想(竹林の七賢など)が生まれた。
3. 特に江南では漢文化が継承され、文学や絵画で貴族を主体とした六朝文化が栄えた。
2. 貴族社会が形成され、自由で自主的な思想(竹林の七賢など)が生まれた。
3. 特に江南では漢文化が継承され、文学や絵画で貴族を主体とした六朝文化が栄えた。
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オ.朝鮮と日本の国家形成
■ポイント 東アジア世界の中で、中国の動乱と朝鮮と日本の国家形成の関係を認識する。
・中国の分裂、周辺民族の自立 → 東アジア全域に影響を与える。朝鮮半島・日本列島での国家の形成をうながす。
・a 朝貢 関係の成立 中国周辺の新興国家の支配者が、支配圏を中国の王朝から承認されることによって、
権威を高めるため、使節を送る。中国王朝は見返りとして、官職・称号を授与し、従属的関係を結ぶ。
= 国際秩序を確認する外交儀礼であるとともに交易の側面もあった。
▲中国王朝の皇帝が周辺諸国の国王に官職を与え、その支配圏を承認する国際秩序をb 冊封体制 という。
・a 朝貢 関係の成立 中国周辺の新興国家の支配者が、支配圏を中国の王朝から承認されることによって、
権威を高めるため、使節を送る。中国王朝は見返りとして、官職・称号を授与し、従属的関係を結ぶ。
= 国際秩序を確認する外交儀礼であるとともに交易の側面もあった。
▲中国王朝の皇帝が周辺諸国の国王に官職を与え、その支配圏を承認する国際秩序をb 冊封体制 という。
解説
冊封体制とは、中国の皇帝が周辺諸国の首長に対し、王・侯などの爵位を授け、その国を外藩国として統属させる体制をいう。冊封という形式は、本来は国内の王・侯に対する爵位授与を意味するものであるが、その形式が周辺諸国に対する中国王朝の統属形式に用いられた。この冊封体制を基軸として、周辺諸国と中国との政治的・文化的関係が形成され、そこに東アジア世界が出現したという学説がある。→ 東アジアの国際秩序として、19世紀まで続く。
Text p.86
1 朝鮮 の情勢
・半島北部:前1世紀 a 高句麗 が起こる。ツングース系の 貊族が建国。都は鴨緑江岸の丸都城。
313年 南下して、漢の置いたb 楽浪郡 を滅ぼす。427年 都を平壌に移す。
・半島南部:c 韓 民族が三韓(馬韓・辰韓・弁韓)に別れ、それぞれが小国に分立。
→ 4世紀なかば、東側の辰韓ではd 新羅 が統一。都は金城(現在の慶州)。
西側の馬韓はe 百済 が統一。都は漢城(現在のソウル)。
弁韓には加羅諸国が分立。
・朝鮮のf 三国時代 (4~7世紀) 三国が
中国王朝に朝貢。仏教、儒教などを受容。
313年 南下して、漢の置いたb 楽浪郡 を滅ぼす。427年 都を平壌に移す。
・半島南部:c 韓 民族が三韓(馬韓・辰韓・弁韓)に別れ、それぞれが小国に分立。
→ 4世紀なかば、東側の辰韓ではd 新羅 が統一。都は金城(現在の慶州)。
西側の馬韓はe 百済 が統一。都は漢城(現在のソウル)。
弁韓には加羅諸国が分立。
・朝鮮のf 三国時代 (4~7世紀) 三国が
中国王朝に朝貢。仏教、儒教などを受容。
2 日本 弥生時代の中期にあたる。
解説
『後漢書』東夷伝倭人条に、57年、倭の奴国王が光武帝に使いを送って朝貢し、印綬を授けられたという記事がある。この奴国は北九州にあった国の一つであろうとされ、そのときの印綬が、志賀島で発見された「金印」であろうと考えられている。当時、弥生時代の中期にあたり、小国家の統合が進んでおり、その中の有力な国の一つが奴国であったものと思われる。・1世紀頃 中国でa 倭人 として現れる。
・3世紀 b 邪馬台国 の女王c 卑弥呼 が魏に朝貢。d 『魏志倭人伝』 に記載。
解説
卑弥呼は『魏志倭人伝』に現れる邪馬台国の女王で、239年、魏に朝貢して皇帝から「親魏倭王」の称号を与えられた。倭人の国々から、「共立」されて女王になったとされ、「よく鬼道に仕え」とあるので、いわゆるシャーマン的な、宗教的な権威を以て治めていたものと思われる。死んだときは「大きな塚」が築かれたと言うが、その墓はどこかはまだわからない。・4世紀 e ヤマト政権 による統一進む。
3 4世紀末 高句麗のa 広開土王(好太王) が半島を南下。 → 百済、倭と戦う。
4 5世紀 a 倭の五王 (讃・珍・斉・興・武) 中国の南朝に朝貢。
・日本は渡来人から、b 漢字 ・仏教 ・儒教 ・道教など の中国文化を伝えられ、受容した。
4 5世紀 a 倭の五王 (讃・珍・斉・興・武) 中国の南朝に朝貢。
・日本は渡来人から、b 漢字 ・仏教 ・儒教 ・道教など の中国文化を伝えられ、受容した。
5世紀 南北朝時代の中国と東アジア
a 北魏
b 宋
c 高句麗 d 新羅
e 百済
f 平城 g 洛陽
h 長安 i 建康
j 平壌 k 慶州
l 漢城
m 雲崗 n 竜門
o 敦煌 p 広開土王碑
q 白村江
c 高句麗 d 新羅
e 百済
f 平城 g 洛陽
h 長安 i 建康
j 平壌 k 慶州
l 漢城
m 雲崗 n 竜門
o 敦煌 p 広開土王碑
q 白村江