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ウズベキスタンの旅

4.シャフリサーブス ティムールの故郷

2009年4月19日 
アク・サライ宮殿跡 ティムール像
シャフリサーブズはサマルカンドの南方にある小村。かつてソグディアナの地に属するケシュといわれた町で、玄奘も立ち寄った記録がある。1336年、この地に生まれたティムールが周辺を制圧して大帝国を造り、サマルカンドを首都とした後、この地に大きな宮殿を建設した。また自らの墓所も作った。しかし、帝国崩壊後、シャイバニ朝のアブドラ=ハーンによって宮殿や墓所は破壊され、忘れ去られた。ウズベキスタン独立後、世界遺産に登録されて整備が進み、現在は巨大なティムール像が造られている。なお、シャフリサーブスとは「緑の町」の意味で、周辺の盆地は豊かな緑に囲まれている。

アク・サライ宮殿跡
アク・サライとは「白い宮殿」の意味で、この周辺一帯がティムールの宮殿であった。この建造物はその門で、内側から見たところ。現在は高さ38mであるが、もとは50m以上あったといい、アーチ型になっていて屋上にはプールがあったと言うからおどろきだ。現在は表面のタイルもはげ落ち荒々しい煉瓦がむき出しになっている。

左はアク・サライ宮殿跡を外側から
見たもの。上の写真で、6角の群青色の
タイルがはがれた様子がよくわかる。
巨大なティムール像
周辺は公園になっていて
結婚式のカップルも見られた

ドルッサオダット建築群 ティムーの墓の予定地

アク・サライ宮殿跡の南に
ある建築遺跡群。
ドルッサオダットとは「大いなる力の座」の意味という。

右はジャハンギール廟。
ジャハンギールはティムールの長男で、22歳で戦死。
かつてここには多くの宿坊などが建てられていたという。

この手前に、ティムールが自ら入ろうと思って作った墓がある。

ジャハンギール廟の右手にあるハズラディ・イマーム・モスクの中庭。このプラタナスはティムール時代のものだという。

ジャハンギール廟の内部

ティムールの墓所。左がその入口。
内部に上の写真の墓石がある。
ティムールは生前にこの墓所を作ったが、
1405年、明に遠征途中の
オトラルで戦死し、遺体はサマルカンドに
運ばれ、現在のグリ・アミール廟に
葬られたので、結局この墓所に
は入らなかった。
長いこと荒廃していたが、最近発掘され
整備も行われた。
ドルッティオヴァット建築群

ドルッティオヴァット建築群は、ドルッサオダット建築群の西側にある、モスクとマドラサの複合体。

中庭に面してコク・バンクス・モスク(青いドームが美しい)とそれに向かい合って2つの廟がある。

モスクは1436年にウルグベクによって建てられたもので内部にフレスコ装飾が見られる。

奥の廟もウルグベクが子孫のために建てたもので、内部に4つの墓石が安置されている。

手前の廟は、ティムールが1374年に父とその師のジャムスッディン・クラルを葬るために建てたもの。

左がコク・バンクス・モスク
右、手前がグンバズィ・サイーダン廟。
真ん中がジャムスッディン・クラル廟。
その向こうに宿坊が並ぶ。

コク・バンクス・モスクの内部
コク・バンクス・モスク内の様々な意匠

グンバズィー・サイーダン廟内の
ウルグ=ベクの子孫の墓
右はジャムスッディン・クラルの墓

モスク脇の墓石屋

シャフリサーブスの通り
ブハラからシャフリサーブスへ

ブハラからシャフリサーブスにむかう途中で

バスからのながめ。遠く羊の群れ。
手前は灌漑用の水路。
ブハラからシャフリサーブスに向かう広い道は、大型のトラックと時々すれ違うが、ほぼ閑散としていた。ブハラを出てしばらくは小麦畑もあり、灌漑用水が見られた。しばらくすると見渡す限りの荒れ地が広がるようになった。途中、茂みのあるところでトイレ休憩。ちょうどそこにロバに乗った羊飼いがやってきた。気軽に我々の相手をしてくれた。
シャフリサーブスからサマルカンドへ
シャフリサーブスからサマルカンドまで、再びバスの旅。このあたりは、緑が多い。古代のソグディアナにあたるのだが、豊かな土地であることが実感できた。途中のトイレ休憩をさせてもらった農家。我々のバス以外にもヨーロッパからのツア客も一緒に便所を使わせてもらう。のどかな農村風景。バスが出発するころ、どこからともなく子どもたちがたくさん出てきて、手を振ってくれた。農家の屋根にもポピーが咲いていた。

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ウズベキスタンの旅 目次
タシケント
サマルカンド1
サマルカンド2
シャフリサーブス
ブハラ
ヒヴァ