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王の道

アケメネス朝ペルシアで首都スサから小アジアのサルデス迄の間に設けられた幹線道路。その他の主要都市にも幹線道路が延び、宿駅・駅伝が設けられ、帝国の中央集権体制を維持し、軍事、経済上の動脈となった。

 アケメネス朝ペルシア帝国全盛期の王、ダレイオス1世が建設した、スサから小アジアのサルデスに至る、およそ2400kmの幹線道路。20~30kmごとに、111の宿駅が設けられ、馬や食料が備えられていた。宿ごとに待機した郵便夫が書状をリレー方式で中継し、スサからサルデスまで6日~8日で伝えた(普通人は3ヶ月かかった)、同時代のギリシア人が「鶴よりも早く走る」と驚いたという。<宮田律『物語イランの歴史』中公新書 2002 p.43> → 駅伝制

史料 ヘロドトスの伝える「王の道」

(引用)街道いたるところに、王室公認の宿場と大層立派な宿泊所があり、街道の通じている全距離にわたって、人家があり安全でもある。リュディアとプリュギアの区間は、九十四半パラサンゲスの距離であるが、この間に宿場が二十ある。・・・・ハリュス河をわたるとカッパドキアに入るが、ここを進んでキリキア国境に至までの距離は、百四パラサンゲス、宿場は二十八を数える。・・・・以上、宿場の総数は百十一、つまりサルディスからスサの都に上っていく間に、これだけの数の宿泊所があったわけである。<ヘロドトス『歴史』巻5 52節 松平千秋訳 岩波文庫(中) p.148-149>

出題 1992年 センター試験 第3問 A

 問2 「王の道」を示したものとして正しいものを、次の地図の①~④のうちから一つ選べ。
王の道

解答

「王の道」の実際

 ヘロドトスが伝える「王の道」はサルディスからスサまでとして伝えている。しかし、この「王の道」だけでなく、ペルシア帝国の各州と都を結ぶ道も重要な道路として整備されていた。特に、政治上の都スサと、も一つの都ペルセポリス、さらに夏の都とされたエクバタナ、冬の都とされたバビロンなどの主要都市を結ぶ交通路が発達していたと見られる。王はこれらの都市を季節ごとに巡回した。
 これらの道路は帝国の軍事上必要だっただけで無く、帝国の経済にとっても不可欠であり、各地からの租税や貢納品が都に運ばれ、都からは各地に貨幣や報償物が流れていった。

駅伝制度

 アケメネス朝治下のペルシアでは、都スサと地方の主要都市を結ぶ幹線道路が整備され、宿駅制度や騎馬急使の制度を採用することによって交通・通信網の拡充が図られた。公務旅行者には王・高官の発行する証明書が与えられ、宿駅における食料・馬糧の無料給付が認められていた。さらに特別に保護や案内を必要とする、地理や言葉に不案内な「旅行」団には、道中のの安全と便宜を図るために「王室所属のガイド」が同行した。<歴史学研究会『世界史史料』1 古代オリエントと地中海世界 p.326 川瀬豊子解説文>
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書籍案内

宮田律
『物語イランの歴史』
2002 中公新書