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駅伝制

古代帝国などで領内の統治に利用された道路とその運用法。古代中国やモンゴル帝国、オリエントで発達した交通システム。

中国の駅伝制

 中国の駅伝の駅は馬、伝は車を乗り継ぐ場所の意味で、戦国時代に始まり、秦・漢帝国で発達し、隋・唐時代にも盛んに用いられた。中国を征服し、ユーラシアに広大な支配権を確立したモンゴル帝国(元)では、ジャムチ(站赤)と言われる駅伝制が発達した。

日本の駅伝制

 駅伝制度は古代日本にも導入されており、律令制では官道の30里(約16km)ごとに駅家(うまや)を設けて、人馬を常備し、官人は駅鈴を所持していればそれを利用できた。これは江戸幕府の宿駅制度となって復活する。近代には行って鉄道の普及によって駅伝制度は消滅したが、陸上競技の名称としていまや世界的に通用することばとなっている。

オリエントの駅伝制

 古代オリエントではアッシリア帝国アケメネス朝ペルシア帝国で駅伝制が整備された。特に後者のダレイオス1世が設けた「王の道」を初めとする駅伝制が有名である。主要道路には、1日行程ごとに駅が置かれ、広大な国土の統治に利用されていた。
 ダレイオス1世(ダリウス1世)は東西をつなぐこの幹線道路に、ある間隔を置いて軍隊を常駐させ、その宿営地には華麗な旅館を作り、要地には堡塁を築いて監守させ、宿駅には常に馬を用意させた。中央から遠隔地への飛脚にはこれらの宿駅において待機する飛脚を交代して中央の意図を迅速に末端まで伝えるようにした。ヘロドトスはこの駅伝制を「アンガレイオン」(注)と呼んだ。<足利惇氏『ペルシア帝国』世界の歴史9 1977 講談社 p.98>
(注) これはギリシアの言葉であり、ペルシアで発掘される粘土板文書ではその言葉は見えていない。それらの粘土板によると、「王の道」を移動した使節団が受け取った食料やその配分、彼らが「旅行証明書」を携行していたことなどが詳細に記録されている。<阿部拓児『アケメネス朝ペルシア』2021 中公新書p.98>

ローマの駅伝制

 ローマ帝国では駅伝制はなかったが、領内に「すべての道はローマに通ず」と言われるほどの道路網を構築した。その中のアッピア街道は現在もいこうとして残っている。ローマの道路はローマの水道とともに高い土木建築の技術を見ることができるが、帝国の支配を末端まで及ぼすための軍事的目的が強く、石畳の舗装道路が発達したのも戦車を通すためだった。

インカの駅伝制

 南米大陸で15世紀に栄えたインカ帝国では、全土に道路網が張りめぐらし、チャスキという飛脚が帝国の命令伝達に当たっていた。
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