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ダレイオス1世

前6~5世紀、オリエント全域とその周辺を支配したアケメネス朝ペルシア全盛期の皇帝で大王とも言われる。ペルシア高原、メソポタミアを中心に、小アジア・エジプトなどオリエント全域を支配し、さらにバルカン半島、バクトリア、インダス川流域に及ぶ世界帝国を建設した。都ペルセポリス・スサやバビロン、エクバタナ、サルディスなどの都市を拠点として全土に道路網と駅伝制を整備、総督サトラップを派遣して中央集権体制を整備した。ギリシア遠征(ペルシア戦争)を企てたが、それには失敗した。ゾロアスター教の神官を保護したが他の宗教にも寛容であり、都市建設やベヒストゥーン碑文を始め多くの楔形文字で記された碑文など高度なペルシア文化を今に伝えている。

ハカーマニシュ朝のダーラヤワウシュ

ダレイオス1世
ベヒストゥーン碑のダレイオス1世
Wikimedhia Commons
 アケメネス朝ペルシア帝国の全盛期の王。即位前522年、在位は前486年まで。ダレイオス大王、ダリウス大王などの表記するが、それらはヘロドトスの『歴史』によるギリシア語表記である。古代ペルシア語の表記では、アケメネス朝はハカーマニシュ朝、ダレイオスはダーラヤワウシュ、あるいはダーラワウであり、最近ではこちらの表記への言い換えが多くなっている。 → イラン人  ペルシア
 彼はアケメネス家のヒュスタスペス(ゾロアスターを保護し、入信したという伝承がある)の子であったが、初代キュロス2世の娘と結婚、第2代カンビュセス2世の近衛兵としてエジプト遠征に従って軍功を挙げた。カンビュセス王の死後に反乱が起こると、彼がそれを鎮圧して第3代の王位に就いたという。この経緯から、キュロス2世――カンビュセス2世の王統はアケメネス家とは別系統だったものを、ダレイオスが実権を握ってから、アケメネス家の家系に組み入れたとする説明も行われている。アケメネス朝の成立事情は従来のようなギリシア資料による理解ではなく、古代ペルシア語資料(碑文や粘土板文書)によって再構成されるべきであるという機運が進んでいるが、まだ分からないことも多く現在も定説には至っていないようだ。<青木健『ペルシア帝国』2020 講談社現代新書/阿部拓児『アケメネス朝ペルシア帝国』2021 中公新書などを参照>
 カンビュセス2世がエジプトを征服し、アケメネス朝ペルシアの支配は全オリエントに及んだが、その死を巡って内戦が生じて王を称する者が多数現れた。その中から傍系であったダレイオス1世が有力となり、対抗する勢力を倒し、さらにキュロス2世の娘を王妃に迎えたことで正統な王権としての権威を獲得た。

ダレイオス1世の征服活動

 ペルシア帝国の「王の中の王」となったダレイオス1世は周辺への盛んな軍事侵攻を行い、帝国の領域をさらに拡大した。東方ではインドに遠征し、インダス川流域(現在のパキスタン)を征服し、インド西部がペルシア帝国領となったことで、その情報がギリシアにもたらされ、ギリシア人の中にインドに対する関心が生まれた。西方ではエジプト総督に命じ、北アフリカのリビアのキュレネに遠征、その地を従えた。このとき遠征軍はさらに西進し現在のベンガジ付近まで到達した。
バルカン半島への侵出 北方では広く中央アジアの草原地帯の遊牧民族(ペルシアの文献ではサカ、ギリシアの文献ではサカイもしくはスキタイ)に対し、ダレイオス自身が二度にわたって遠征し、最初の遠征では服属させる事に成功した。このときの遠征はベヒストゥーン碑文に追加で記されている。第二回目の遠征は小アジアからボスポラス海峡を越えてバルカン半島を黒海沿いに北上し、ドナウ川を越えて侵攻した。このときは遊牧民族スキタイが後退戦術を採ったため捕捉できず、ダレイオスは撤退した。しかし部下の将軍をトラキアに滞在させ、マケドニアを服従させた。これはギリシア本土への圧力となっただけで無く、ペルシア帝国がアジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸にまたがる世界最初の世界帝国となったことを意味している。

ダレイオス1世の中央集権国家建設

 ダレイオス1世は権力を握ると、法による支配を目指し、新都ペルセポリスの建設を開始、国内を20の州に分けて中央からサトラップを派遣し、道路(王の道)や港湾を建設、さらにダリーク(ダリック)という金貨を鋳造し、度量衡を統一してペルシア帝国の繁栄の基礎を築いた。帝国の領土を、中央アジア・インド方面に広げ、さらに西進して小アジアを超え、ボスポラス海峡を越えて黒海に沿って北上しスキタイ遠征を行った。この遠征は失敗に終わったが、ペルシア帝国の勢力はバルカン半島に及び、トラキア人やギリシア北方のマケドニアに及んだ。さらにダレイオス1世はエーゲ海諸島やギリシア本土の都市国家にも宗主権を認めさせた。
貨幣の発行 ダレイオス1世は中央集権制の要として度量衡の統一をはかるとともに、金貨などの貨幣を鋳造し流通させた。ダレイオス1世の金貨は、自身が弓を射ているスタガを描いたものでダリックといわれた。この発行権は王のみに属していたようであるが、貨幣鋳造所はスサより東には無く、金貨は帝国領のゼイン域で流通したとは言えず、リディア王国以来の貨幣流通の地域であった帝国西部に限定されていた。それも大王による贈り物や傭兵への支払にあてっれたものと思われる。金貨以外に銀貨、銅貨も発行され、それらはサトラップや将軍らによっても鋳造され、帝国全域で流通していた。<山本由美子『オリエント世界の発展』世界の歴史 4 1997 中公文庫版 2009 p.136>

ギリシア遠征の失敗

 活発に商業活動を展開していたエーゲ海東岸のミレトスなどイオニア地方のギリシア人都市国家は、ペルシア帝国の支配から自立しようと動きだし、前500年(前499年ともいう)に反乱を起こした。このイオニアの反乱をギリシア本土のアテネが支援したことから、ダレイオスはギリシア遠征を企て、前492年にギリシア侵攻を開始した。これはペルシア戦争と言われるが、ギリシア視点の用語であるので、最近ではギリシア=ペルシア戦争と呼ぶべきであるとの意見も強いが、現状ではまだペルシア戦争という用語が一般的である。このときの遠征が暴風雨のため失敗したので、ダレイオスは前490年にも大軍を派遣したがマラトンの戦いでギリシアの重装歩兵戦術に敗れ、遠征そのものに失敗した。そのギリシア本土の征服の事業は、次のクセルクセス1世に引き継がれることとなったが、結局失敗に終わった。

ベヒストゥーン碑文

 イランのベヒストゥーン碑文からはダレイオス1世の業績を記念した碑文が発見され、その楔形文字が19世紀の中頃、イギリス人ローリンソンによって解読され、その事跡も明らかになっている。それは、ダレイオス1世が、前王カンビュセス2世の死後の内紛を鎮定し、権力を継承した正当性を明らかにするために作られたものであることが判明した。

ダレイオス1世の墓

ダレイオス1世の墓所
ダレイオス1世の墓所(ナクシェ・ルスタム)
 ダレイオス1世はペルセポリスの近く、ナクシェ・ルスタムの山腹に墓所を造り、その後三代にわたって造営された。墓の入口には王自身が三段からなる檀の上に立ち、右手を挙げ、祈っている姿が描かれ、彼に向かいあって高い台の上で燃え輝いている火があり、王の像と火を載せている広い壇は三十人の人に支えられている。これらの人々はそこに彫られた名から、ペルシア帝国を形成する30の民族を代表していることが分かる。壇上の両側には三人ずつ縦に六人が並んでいる。彼らはいずれも左手で口をおおうように上げて袖で隠す儀礼的仕草をしており、ダレイオス1世の即位を助けた6人のペルシア人貴族を表している。それはまたアフラ=マズダを助ける六柱の霊神(アムシャ・スプンタ)に対応している。ダレイオス1世はこのように自らをアフラ=マズダの地上での代理人として支配していることを宣言しており、ゾロアスター教を信奉していたことがわかる。<メアリー=ボイス/山本由美子訳『ゾロアスター教』2010 講談社学術文庫 p.125>
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書籍案内

小川英雄/山本由美子
『オリエント世界の発展』
世界の歴史 4 1997
中公文庫版 2009

青木健
『ペルシア帝国』
2020 講談社現代新書

阿部拓児
『アケメネス朝ペルシア帝国』
2021 中公新書