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スサ

エラム王国の都として建設され、アケメネス朝ペルシア帝国では行政上の首都であり、王の道の起点となる。

 スーサとも表記。イラン高原西南部にある遺跡。古代イラン文明の中心地の一つであり、前12世紀にエラム人が王国の都として建設した。エラム人の王国の首都スサは前640年にアッシリア帝国アッシュール=バニパル王によって破壊され、エラム王国も滅亡した。その後、前6世紀ごろオリエントを統一したアケメネス朝ペルシア帝国のダレイオス1世は、スサを政治上の都の一つとして再建し、ペルシア帝国とともに繁栄をつづけた。しかし、前4世紀後半、ペルシア帝国の滅亡とともに衰え、現在では遺蹟として遺されている。

ペルシア帝国の都の一つ

 アケメネス朝ペルシア帝国のダレイオス1世はここに王宮を建設したが、それ以前からここにはイラン文化の中心地であったらしく、1897年以来のフランスによる発掘で、彩文土器、楔形文字の粘土板などが出土している。ペルシア帝国ではペルセポリスとスサがいずれも首都とされるが、ペルセポリスは王の居住する王都、スサは諸官庁の所在地としての実際の行政の中心地、ということであったらしい。また小アジアのサルデスに至る「王の道」の基点でもあった。

ダレイオス1世によるスサの建設

 スサ(スーサともいう。ペルシア語ではスーシャ、またはシューシャ)でシューシャ碑文と言われるアケメネス朝ペルシア帝国のダレイオス(ダーラヤワウ)1世関連の碑文が多数残されている。それは古代ペルシア語、エラム語、アッカド語の三カ国語で書かれており、スサの再建についても詳しく伝えている。ダレイオス1世はバビロンにしばらく居住した後、スサを首都に定め、アッシュールバニパル王によって廃墟とされた丘に、王宮を建設した。シューシャ碑文には、次のようにその建造が行われたことが記されている。
 宮殿は大地の岩盤に届くまで地面を掘り下げ、採石を敷き詰め、日干しレンガを積み上げた。この作業にはバビロンの人々が当たった。建材は遠方から運ばれた。杉材はレバノンの山から、アッシリア人などで運ばれ、樫材はガンダーラとカルカ(カリア)から運ばれた。その他、金は小アジアのサルディスとバクトリアから運ばれ、ここで加工された。瑠璃と紅玉はソグディアナ、トルコ石はフワーリズミーから、象牙はエチオピアとインダスなどから運ばれた。
 このようにスサの建設にはメソポラミア、エジプト、ギリシアなどの各地から建材が集められ、諸地域の民族が参加した。ダレイオス1世はペルセポリスにも別の王宮を建造する命令を発し、スサで仕事をしていた職人はそちらでも同様に仕事を続けた。<歴史学研究会『世界史史料』1 古代オリエントと地中海世界 p.323-324>
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歴史学研究会
『世界史史料』1
古代オリエントと地中海世界
2018 岩波書店