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府兵制

中国の西魏に始まり、隋唐に継承された兵制。均田農民に兵役の義務を負わせる徴兵制度である。

 府兵制は、6世紀半ば頃から8世紀半ば頃まで中国で行われた軍事制度であり、土地公有制である均田制を基盤として、公有地を給与された自営農民の中から兵士を徴発する徴兵制度である。その起源は北朝の西魏にさかのぼり、北方系の遊牧民であった北朝の王朝が、農耕民を軍事力に組織する制度として始まり、隋および唐に継承され、唐の律令制度の一環として完成した。

西魏の府兵制

 550年ごろ、宇文泰によって整備された。全部で96の儀同府という軍団がおかれ、4儀同府ごとに「開府」という司令官が統率する。さらに24の開府を二人ずつ(つまり2軍)にわけ12人の「大将軍」が統括し、大将軍を二人ずつ(つまり4軍)を6人の「柱国」が指揮する。このように皇帝・丞相の下に、六柱国→十二大将軍→二十四開府→九十六儀同府という指揮系列があった。儀同府には、儀同将軍→大都督→帥都督→都督という指揮官が置かれ、その兵士は「府兵」と言われた。府兵は租庸調と力役を免除され、馬や食料は六軒の家が提供していた。

唐の府兵制

 その起源は西魏の府兵制にあるが、直接的には隋の府兵制を継承した。唐の太宗は636年に中国全土平定のあとを受けて地方に兵部所管の折衝府を置き、兵力供給源と地方治安の中心とした。折衝府は全国でおよそ600前後あるが、その配置の中心は長安及び洛陽の周辺であった。各折衝府には千名程度の兵員が在駐し、長官の折衝都尉、次官の果毅都尉などが指揮した。それぞれの折衝府は首都の十二衛六率府に属していた。兵役の内容は次項の通り。

府兵制の兵役

 府兵は折衝府において農閑期に訓練を受けるほか、一年に一~二ヶ月、衛士(えいし)として首都の防衛にあたった(番上という)。また府兵は在任中に三年間、防人として国境の鎮や戌で警備にあたった。府兵は折衝府の置かれた州(軍府州)の均田農民から徴発され、租庸調は免除されたが、武器・食料などは自弁とされた。折衝府の置かれていない州(非軍府州)もあったが、唐王朝は狭郷(耕地の少ない地方)から寛郷(耕地のゆとりある地方)への移住は認めたが、軍府州から非軍府州への移住は認めず、府兵の確保につとめた。しかし、周辺諸民族との戦争が続いたので、府兵となる農民負担は大きく、徴兵忌避が各地で起こっていた。

募兵制へ

 府兵制は均田農民を徴発することで成り立っていたので、均田制が崩壊した8世紀の中頃には行われなくなり、749年に廃止され、兵士を募集する募兵制に移行していく。
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