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西魏

北魏の分裂によって535年、長安を都に成立した国家。東魏と対抗し、軍事制度の府兵制を創始した。

 北魏で台頭した高歓に操縦されることを嫌った北魏の孝武帝は、洛陽から西の長安に逃れ、そこを拠点としていた地方軍団長の宇文泰(505~556)を頼った。534年に、高歓は北魏の孝静帝を擁立しして、鄴(ギョウ)(河北省)に都をにおいてて、山西省以東を支配した東魏と対抗することとなった。それに対して宇文泰は翌535年、孝武帝を立て都は長安とし、自らは華州に「幕府」を開き、華北の西半分を支配した。こうして北魏は東西に分裂した。宇文泰は西魏の皇帝を立て、自らは皇帝とはならず、実権を保持するに留まったが、府兵制の実施など、後の隋・唐に継承される体制を作り上げた。宇文泰の死んだ556年、その子が西魏の皇帝から禅譲を受けて北周が成立する。

府兵制の創出

 550年ごろ、北魏の宇文泰は北方系の軍団組織をもとに支配下の農民を兵士として組織した府兵制を作り上げ、また法整備を進め、安定した支配機構を持つに至った。府兵制は均田制と一体となった制度で、北魏政府は均田制によって土地を与えた壮丁(青年男子)を戸籍によって掌握し、そこから兵士を徴兵する、徴兵制度を実施した。
 五胡十六国が興亡する間、華北の漢民族も北方異民族と同じように戦闘能力を身につけていった。宇文泰はそこに目をつけ、異民族か漢民族かを問わず、均田制で土地を半休した農民に対し、租庸調・雑徭の負担に加えて、兵役の義務を負わせ、兵役についた場合には租庸調を免除した。後漢時代から国民皆兵の体制が崩れ、傭兵制度が取られるようになっていた中国の王朝の中で、徴兵制度による国民皆兵を復活させたことは重要な意味があり、次の隋唐にも継承される。

府兵制の限界

 折から南朝のは、侯景の乱が全土に広がり、弱体化が顕わになっていたので、宇文泰は府兵制で組織した軍隊を派遣し、四川地方や江陵を奪った。しかし、当時、モンゴル高原に興った新たな遊牧騎馬民族である突厥に対しては、府兵制の軍隊では立ち向かえなかった。
 552年柔然から突厥の木杆(もくかん)可汗が独立した。突厥はかつて服従していたして柔然を攻撃したため、柔然の民が西魏の領内に逃げこんでくると、宇文泰は突厥の要求に応じて、情け容赦もなく柔然の君主以下3000人を捕らえて突厥に引き渡し、それが皆殺しにされるのを傍観した。宇文泰は突厥に対してその後も卑屈な態度を取り、その属国と見なされることとなった。一方の東魏は突厥に対して果敢に抵抗し、その侵入を再三撃退している。<宮崎市定『大唐帝国 中国の中世』中公文庫 p.312>
 府兵制は、対内的なもので、対外戦争には役立たなかったということか。
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書籍案内

宮崎市定
『大唐帝国 中国の中世』
1968初刊
1988 中公文庫再刊