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義浄

唐代の7世紀後半に、海路を利用してインドに往復した僧侶。途中、シュリーヴィジャヤ王国に滞在した。

 7世紀の末、インドに渡った中国の唐の僧。7世紀前半の玄奘が陸路を利用したのに対し、7世紀後半の義浄は海路を利用し、671年に出発、695年に帰国した。その旅行記が『南海寄帰内法伝』である。義浄も玄奘と同じ、ナーランダ僧院に学び、多くの仏典を中国にもたらした。また、インドから帰る途中、東南アジアのスマトラ島とマレー半島を支配していたシュリーヴィジャヤ王国に滞在し、その国の大乗仏教が盛んであった様子を伝えている。

義浄のインド・東南アジア紀行

 義浄は671年に広州からペルシア船に便乗してインドに向かい、20日たらずでシュリヴィジャヤに到着した。シュリーヴィジャヤ王国は中国にたびたび朝貢し、室利仏逝国(または三仏斉)としてて知られていた。現在のスマトラ島パレンバンが都であった。ここに6ヶ月滞在し、サンスクリットの文字とその発音を学び、国王の好意によって近くの小国を訪ねた後、翌672年12月にインドに向かい、ナーランダー僧院などで13年間勉学した。685年にサンスクリットの仏典多数を携えてパレンバンに戻った。

Episode 南シナ海を何度も往復

689年に義浄がシュリヴィジャヤの河口で商人の船を訪ね、広州に送る手紙を書いている時に、良い風がきたために、その商人がかれを乗せたままで船を出帆させてしまった。このためかれは不本意ながらその年の七月にいったん広州にもどったが、すぐに十一月にほかの船でシュリヴィジャヤに引き返している。往路、復路とも船は広州とシュリヴィジャヤの間を直航していたと思われる。<生田滋『東南アジアの伝統と発展』世界の歴史13 中央公論新社 1998 p.141>
 その後彼はシュリヴィジャヤに滞在し、『南海寄帰内法伝』、『大唐西域求法高僧伝』などを著した。かれはこれらの著作を692年に友人に託して朝廷に献上し、かれ自身は694年にシュリヴィジャヤを離れ、広州に向かって帰国の途についた。