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タラス河畔の戦い

751年、中央アジアにおける唐とアッバース朝の対決。唐が敗れ西域進出が停止され、中央アジアのイスラーム化が始まった。中国から製紙法がイスラーム世界に伝えられる契機となった。

 751年、はタラス河畔の戦いで、アッバース朝イスラーム帝国の軍と戦い大敗を喫した。この戦いは東西の世界帝国が直接交戦した重要な出来事である。タラスは現在のキルギス共和国ジャンプイル付近。
 唐ではアラビア人またはイスラーム教徒を大食(タージー)と言った。これはイラン語でアラビア人をタージーと言っていたのが伝わったものと思われる。アッバース朝のことは黒衣大食と言っている。唐王朝の成立するころアラビアに登場したムハンマドは、アッラーの啓示を受けて以来、急速に教団の勢力を強め、イスラーム帝国を成立させた。その後、正統カリフ時代、ウマイヤ朝時代を経て、750年にアッバース朝が成立した。タラス河畔の戦いはその直後であった。
 この戦争の直接の原因は、唐の河西節度使高仙芝(こうせんし、高句麗出身)がタシュケントの王を捕虜として虐待し、脱走した王子がアッバース朝の応援を要請し、それに応えたイスラーム教徒軍が唐軍を攻撃したもの。高仙芝は3万の兵でタラス城を守り、5日間持ちこたえたが、一部の現地のトルコ系部隊がアッバース軍に内通したため総崩れとなり、生還者わずか数千という敗北を喫した。なおこの戦いの時、唐軍の捕虜によって製紙法がアラビア人に伝えられたことは、文化の東西交流の一つとして興味深い。