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楊貴妃

唐の玄宗の愛妃。755年に起こった安史の乱の際に反乱軍によって殺された。

 玄宗皇帝の愛妃。古来、西のクレオパトラと並ぶ、東の美人の代表とされる。楊家の出で、はじめは玄宗の王子の妃であったが、玄宗の目にとまり、いったん女道士(道教の尼)と言うことにした上で744年、玄宗の後宮に入った。56歳の玄宗は22歳の楊貴妃を溺愛し、妃の最高位である貴妃の地位につけたので楊貴妃という。二人は政治をかえりみず、長安から離れた驪山(りざん)の温泉に入り浸るようになった。
 さらに節度使安禄山は、宮廷で楊貴妃に取り入り、隠然たる力を持つようになった。また、一族の楊国忠が政界に進出し、宰相にまで上りつめた。

安史の乱の勃発

 宮廷では年老いた玄宗が政治への意欲を無くして宴楽にふける間、安禄山と楊国忠の対立は根深くなり、楊国忠が安禄山の排除を図ると、安禄山は755年、拠点の幽州(現在の北京)に戻り、楊一族の排除を掲げて挙兵した。これが安史の乱の始まりであった。
 乱の鎮圧に派遣した東軍がもろくも敗れ、安禄山軍が長安に迫るとの知らせが入ると、玄宗皇帝は楊国忠、楊貴妃ともども急いで四川を目がけて逃れたが、途中の6月13日、馬嵬(ばかい)駅で兵士たちが暴動を起こし、国難の原因となった楊貴妃・楊国忠らの処刑を皇帝に要求した。やむなく玄宗は二人に死を命じ、楊貴妃は宦官の高力士によって絞め殺されてしまった。楊貴妃は36歳だった。
 玄宗と楊貴妃の逃避行は白居易(白楽天)の『長恨歌』にうたわれ、広く知られている。平安時代の日本にも伝えられ貴族たちに愛読された。

Episode 楊貴妃の好物

 楊貴妃が玄宗の寵愛をもっぱらにしていたころ、大好物の茘枝(ライチ)を南方から特急の便で取り寄せて賞味していたという有名な逸話がある。『新唐書』の后妃伝の記事では、楊貴妃は必ず生のまま食べたいので、騎馬を置いて伝送し、数千里を走らせ、味が変わらないうちに都に着くようにしていたという。楊貴妃が茘枝を好んだのは蜀に生まれたからだという話もあるが、蜀よりもうまい茘枝は広東・福建あたりで、中国南部では「果物の王」と言われてている。ライチは今でこそ日本のスーパーでも売られるようになったが、果皮はやゝ硬く、果肉はあまく半透明で水分に富み、少々酸味があって何よりも独特の芳香がある。<村山吉廣『楊貴妃』1997 中公新書 p.36>
楊貴妃のぜいたくだろうか。幼くして後宮に入った楊貴妃が故郷を思いながら、わずかな楽しみをライチに求めたのだろうか。現在だったら「産地直送」。クロネコヤマトのクール宅急便で届けさせただろう。

Episode 日本にある楊貴妃の墓

楊貴妃観音

京都泉涌寺の楊貴妃観音

 反乱軍に追われ蜀をめざす玄宗に対し、兵士たちは国を誤らせた楊国忠と楊貴妃を処罰せよとせまる。やむなく玄宗は二人に死を命じる。楊貴妃は宦官高力士の手によって絞め殺されて、慌ただしく木の根元に埋められた。ところで、源義経や西郷隆盛にもあるように、実は生きていた、という話が楊貴妃にもある。以下は、村山吉廣『楊貴妃』第7章余聞・遺事より。
 後の伝説では、首を絞められた楊貴妃だったが突然息を吹き返した。蘇生した楊貴妃は宮女に守られて襄陽に送られ、そこで河舟を傭い渭水から揚子江に出て揚州に下った。そこで日本に帰る遣唐使の船に乗せてもらい、日本に渡った、という。日本で楊貴妃が漂着したとされているのが山口県大津郡油谷町の久津海岸である。楊貴妃はまもなく死んだので里人は海岸近くの高台に埋葬した。玄宗皇帝は夢でそのことを知り、追善のために陳安という将軍を日本に送り、釈迦と阿弥陀の二尊像と十三重の宝塔を作らせたという。近くの二尊院にはその二尊を祀るお堂で、裏手の墓地に楊貴妃の墓がある。楊貴妃の墓は五輪塔の形をしている。<村山吉廣『楊貴妃』1997 中公新書 p.183-190>
 京都の泉涌寺(御寺)には楊貴妃観音が祀られている。この像は聖観音像(重要文化財)で、もとより楊貴妃の像ではないのだが、鎌倉時代の初めに宋からもたらされたもので、その宝冠の細密な造りやたおやかな姿から、誰言うとなく楊貴妃観音とされるようになった。泉涌寺の末寺である鎌倉の浄光明寺には、その楊貴妃観音像を模した石造が山門の脇に置かれているので、身近なところで楊貴妃に会いたいときは、とりあえず鎌倉に行ってみるとよい。
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村山吉廣
『楊貴妃』
1997 中公新書