印刷 | 通常画面に戻る |

大食/タージー

唐代にアラビア人をタージーと呼び、大食の文字をあてて以後、中国でアラビア人を大食というようになった。

 『旧唐書』などの中国の歴史書では、アラビア人は「大食」と書かれている。これは、イラン人がアラビア人をタージ、あるいはタージクとよんだのが中国でタージーと言われるようになり、「大食」の字を当てたものとされている。または商人を意味するアラビア語のタージルから転訛したとの説もある。なおウマイヤ朝を白衣大食、アッバース朝を黒衣大食と言った。<『新編東洋史辞典』創元社 などによる>
 大食といわれたアラビア商人(ムスリム商人)は、唐代に広州揚州などの商業都市に渡来して交易を行い、居住地を設けていた。宋と南宋でもアラビア商人による南海貿易は続き、南宋末(13世紀)の泉州には、蒲寿庚というアラビア人が外国貿易を管轄する提挙市舶となったことが知られている。

Episode 鎌倉に大食僧がいた

 金沢文庫の古文書の中に、1319(文保3)年頃と推定される六波羅探題金沢貞顕が称名寺に送った書状がある。それは多宝寺(扇ヶ谷にあった真言律宗の寺。現在は廃寺)の訴訟が、寺側の勝訴となったことを伝えており、最後に「大食僧、定めて悦喜候か」と結んでいる。この大食僧は、唐代以来、中国南部に何世代も居住するうち、仏教徒となったアラビア人と思われる。とすると、鎌倉の多宝寺の主だった僧衆の中に大食がいたことになる。<筧雅博『蒙古襲来と徳政令』2001 講談社 日本の歴史10 p.331>
 鎌倉には源実朝がすでに和賀江島を築いており、また称名寺のある六浦にも宋や元からの外国船も入港していた。当時の日本の最先端を行く国際都市としての一面もあった。
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第3章2節 イ.唐の制度と文化