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佃戸/佃戸制

中国の宋代に一般化した土地を持たない農民(小作農)。清代まで続く。

 佃戸は土地の所有権を持たず、地主の土地を耕作して地代を納める小作農のことを言う。中国には古くから存在したが、唐代の均田制が崩れて、両税法が施行されたことによって土地私有制が認められた結果、さらに階層分化が進んだ。五代十国の時期に、地主層と小作農=佃戸が形成され、一般化したのは宋(北宋)代で、富裕層は形勢戸といわれ、その中で科挙に合格して管理を出した戸を特に官戸といった。佃戸はさらに増大していったものと考えられる。宋以後の元、明、清でも大土地所有制の発展と並行して佃戸も増加した。
 明代になると佃戸(小作農)による地主に対する小作農軽減を要求する闘争が始まる。明末清初に展開されたこの小作農の闘争を抗租運動という。

佃戸制

 中国の宋代以降の、地主が小作人の佃戸に土地を耕作させる経営形態を言う。唐の後半の8世紀頃から、均田制が崩壊して大土地所収制度である荘園制が形成され、没落した均田農民は荘園の小作人である佃戸となっていった。宋代には荘園領主である貴族や大寺院に代わり地方に富裕な農民層が現れ、彼らは官戸形勢戸といわれ、地主として佃戸に土地を貸し与え、小作料を取るという土地経営を行った。そのような宋代以降、明清まで続く地主と小作人の関係を佃戸制という。

佃戸・佃戸制に対する見解の対立

 佃戸は本来は奴隷ではなく、法的には自由民であったが、宋代には自由を制限され土地に縛られた隷属的な佃戸が多くなった。西欧封建制でのコロヌスから農奴への変化と対比することができる。佃戸の負担も時代と地域によって違うが、収穫の半分を小作料として負担することが通常であった。佃戸の自由民としての側面を重視するか、隷属民としての側面を重視するか、見解の対立がある。それはつまり、この地主-佃戸関係を封建的な農奴制と見るか、近代に近い契約的な関係と見るかという見解の対立である。前者の見解では佃戸は地主から土地だけでなく住居、耕牛、種子を借りている隷属性の強い農奴的存在とし、後者は独立性の強い自由な小作人と見る。現実的にはその両面があり、次第に後者の面が強くなると考えるのが妥当であろうか。このような土地制度の枠組みは南宋、元を経て、明代には自立性を強めて小作料の減免を求め地主と争うようになった(抗租運動)。
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第6章2節 エ.宋代の社会