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西ウイグル王国

9~13世紀、東トルキスタンに栄えたトルコ系ウイグル人の国家。トルコ系民族の中央アジア定住によるトルキスタンの成立をもたらした。ウイグル文字を用いたことも重要。

 866年に成立し、13世紀末まで続いた、天山山脈南側のタリム盆地に広がるタクラマカン砂漠のオアシス都市を支配した、トルコ系民族ウイグル人の国家。9~10世紀、トルコ系民族・ウイグル人は遊牧生活からこの地で定住生活に転換し、中央アジアのトルコ化が進んだ。

トルキスタンの成立

 モンゴル高原で栄えていたトルコ系の遊牧国家ウイグルは、840年、キルギスによって滅ぼされ、その遺民の一部は中国西部に入って党項の支配を受け、別の一部はさらに遠く、天山山脈南部のタリム盆地のタクラマカン砂漠のオアシス地帯に移住し、そこで定住するようになった。これによって、9~10世紀に、パミール高原の東側で北は天山山脈、南はクンルン山脈に囲まれた地域がトルコ系民族のウイグル人の支配の下に入り、トルコ語がそれまでのイラン系言語に代わって用いられるようになり、トルコ文化を受け容れることになった。これによってこの地域はトルキスタンと言われるようになる。また、中央アジアにいた他のトルコ族が、さらに西方に移動を開始することとなり、その結果、イスラーム教と接触を深めて、トルコ人のイスラーム化がはじまるという大きな影響を及ぼしている。ウイグル人が西ウイグル王国を作ったのは、パミール高原の東側のタリム盆地にオアシス都市が点在する東トルキスタンといわれる地域であった。

西ウイグル王国の文化

 ウイグル人はモンゴル高原にいたときからマニ教を奉じていたが、東トルキスタンに入って定住すると共に、仏教の影響も受け、ウイグル語仏典も作成された。また、ソグド文字をもとに、ウイグル文字をつくって用いていた。こうして西ウイグル王国の下で、トルコ系民族は遊牧民から、オアシス都市の都市民およびその周辺の農耕民に変身していった。

西ウイグル王国のその後

 12世紀前半にはカラ=キタイ(西遼)の支配を受けた。さらに13世紀初めにはチンギス=ハンに帰属し、実態はモンゴル帝国に組み込まれたが、形式的な王位を守った。最終的には元朝の滅亡と共に王統も消滅した。<梅村坦『内陸アジア史の展開』世界史リブレット 11 p.56-61>
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書籍案内

梅村坦
『内陸アジア史の展開』
世界史リブレット 11
山川出版社