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西遼/カラ=キタイ

遼が滅亡したとき、遼の王族耶律大石が西トルキスタンに逃れて、1133年に建国した国家。1211にナイマンに滅ぼされた。

 黒契丹ともいわれ、カラは黒、キタイは契丹のこと。中国では西遼と言われる。契丹人のの皇帝の一族耶律大石が、金・宋軍に首都燕京を攻撃される中で、1125年に脱出し、外モンゴルを経て西進し、中央アジアに入り、カラ=ハン朝を倒して1133年に建国。都はカラ=ハン朝に続きベラサグン。さらに1141年にはセルジューク朝軍を破り、サマルカンド、ブハラなどの西トルキスタンの主要な交易都市を支配した。中央アジアの西トルキスタンに漢文化の影響を受けた国家が存在したことは東西交渉史上興味深い。
 13世紀にはいると、その西に起こったホラズムに次第に圧迫され、1209年ホラズム王のムハンマドに敗れ、東方に移動し、さらにチンギス=ハンに敗れて逃れてきたナイマン部のタヤン=ハンの息子クチュルクによって、1211年王位を奪われ、滅亡した。その後、ナイマンはチンギス=ハンに滅ぼされ、カラ=キタイの遺領と遺民はモンゴル帝国に支配されることとなった。モンゴル帝国はカラ=キタイから中国風の統治制度を採り入れたと言われている。

中央アジアの中国文化

 西遼(カラ=キタイ)は現在のキルギスを中心にトルキスタン全域を支配した国で、王族は仏教徒であり、中国式の廟号や年号、貨幣の使用など中国征服王朝である遼の文化の伝統を重んじていた。しかしその文化は中央アジアのトルコ=イスラーム文化にはほとんど影響を及ぼさなかった。国家が存在したのが1133年から1211年までの約80年間だけであったためであろう。<間野英二『地域からの世界史8 内陸アジア』1996 朝日新聞社 p.62-63>

Episode プレスター=ジョン伝説とカラ=キタイ

 イスラーム教国ではなかったカラ=キタイ(西遼)が、1141年にサマルカンド郊外の草原で一大決戦の末、イスラーム教国のセルジューク朝軍を破った。このことが西方世界に伝えられ、プレスター=ジョンの伝説が生まれたという見解もある。また、カラ=キタイの人々はモンゴル帝国に服することとなったが、それには次のような意義があった。「モンゴルは文字通り無傷のままで、輝かしい帝国の伝統と、モンゴルに対する強い類似性をもった人々によって支配されていた大国家を獲得した」こととなり、「カラ=キタイを征服したことで、モンゴルは制度上の枠組みを利用できるようになり、実際それを活用したのであった。より大きなスケールで見れば、ある意味でモンゴル帝国はカラ=キタイ帝国の継承国家だったのである。」<D.モーガン『モンゴル帝国の歴史』1986 角川選書 p.31-34>
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ノートの参照
第6章2節 イ.北方の諸勢力