印刷 | 通常画面に戻る |

蒲寿庚

南宋、元での泉州で活動したアラビア人商人。

 ほじゅこう。唐代以降、宋・元代にも多くのアラビア人商人(イスラーム教徒で商人であるのでムスリム商人という)多数、中国で活動していた。中国では彼らは大食(タージー)と言われた。著名な人に蒲寿庚(ほじゅこう)がいる。彼は南宋の末期に泉州で活躍したアラビア人(またはイラン人とも言う)商人で、海運業に従事していた。提挙市舶という役職について泉州の貿易を牛耳っていたが、元軍が南下してくるとそれに協力し、元の福建・広東地方制圧に活躍、元代の南海貿易でも大きな利益を上げた。蒲寿庚以外にもアラビア系ムスリム商人の活動は首都大都の他、杭州、泉州、杭州などの港市で活発であった。またアフマッドというアラビア人は元の財務長官になっている。

フビライと蒲寿庚

 みずからイラン系ないしアラブ系の海洋商人でありながら、南宋国の「提挙市舶」つまり船舶と通商を取り締まる行政官であった蒲寿庚は、中国南西の沿岸諸都市に出入りする貿易船団にたいする命令・管轄権をにぎっていた。杭州の無血開城後、一族が住まいしていた泉州に逃亡した南宋の「流亡宮廷」は蒲寿庚に頼ったが、彼らは不用意に尊大な態度に出たため蒲寿庚を激怒させてしまった。「蒲寿庚は流亡宮廷を敵に回して激戦し、彼らを泉州湾からおいだしモンゴルと手を握った。クビライは蒲寿庚を取り込むことで、海上通商勢力を丸ごと手に入れた。蒲寿庚らも、クビライ政権の海上進出にすすんで協力した。泉州では、モンゴル政府による大型艦の建造も開始された。」<杉山正明『クビライの挑戦』1995 講談社学術文庫版 p.205>
 モンゴルが南宋接収の海上戦力の組織化をためす最初の機会が、1281年の第二回の日本遠征であった。江南から10万の兵(実態はほとんどが移民だった)を乗せた大艦隊、「江南軍」であり、これは人類史上最大の「外洋航海」をした大艦隊で会った。<杉山 同上 p.207>
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第6章3節 イ.元の東アジア支配