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フビライ=ハン/クビライ/世祖

モンゴル帝国第5代ハン。都を大都(北京)に遷し、1271年に国号を元とした。南宋を滅ぼして中国全土を支配、さらに高麗を属国とし、チャンパー、ビルマ、ジャワ、日本などに遠征軍を送った。東西交渉が活発となり、マルコ=ポーロが宮廷に使えた。1294年に没し、諡を世祖とされた。

フビライ=ハン
フビライ=ハン 台北・故宮博物館蔵
 チンギス=ハンの子トゥルイの第2子。モンゴル語の発音ではクビライと表記するのが正しいとされる。漢字では忽必烈。兄モンケ=ハンのもとで、チベットや雲南(大理)に遠征、南宋の背後を抑えて、南宋征服に備えていたが、1260年にモンケ=ハンの急死を知り、独自にクリルタイを強行し、第5代ハンに即位した。それを認めず、同じく第5代ハンを名乗った末弟のアリクブケをカラコルムから追い出し、1264年に権力を握った。 1267年都を大都(現在の北京)に遷した。さらに1271年には国号を中国風にに改め、本格的な中国支配を意図した。モンゴル人はこの国家を大元ウルスと呼んだ。初代元皇帝としては廟号を世祖という。モンゴルの中国支配を完成させた皇帝として重要で、それ以後、1294年までフビライ=ハンの統治が行われる。

参考 クビライとカアン・カンの表記

 現行教科書ではフビライと表記されるが、杉山正明氏によれば当時のモンゴル語の発音では「クビライ」の方が近いという。また「ハイドゥ」も「カイドゥ」が近い。さらに、ハンの「ハ」も原音では「カ」と「ハ」の中間であり、時代や地域によって違うが、モンゴル時代においては「カ」の方に近かった。従って「ハン」は「カン」と表記すべきである。ただし、ユーラシア中央域の遊牧民社会のそれなりの人間集団の長をトルコ語・モンゴル語で「カン」といい、さらに数多い君長たちの上に立つ至高の存在を「カガン」ないしは「カアン」といい、モンゴル帝国では第二代皇帝オゴタイから「カアン」と名乗り、帝国を構成する他のウルスの当主はあくまで「カン」とのみ称した。つまり「カアン」と「カン」は使い分けなければならず、「クビライ=カアン」が最も正しい表記と言える。<杉山正明『クビライの挑戦』1995 講談社学術文庫版 p.74-75 を参照>
 ただし、現行教科書では依然として「フビライ=ハン」と表記されている。

アリクブケとの抗争

 1260年、モンケ=ハンが死ぬと、その子どもたちは20代でハンとしては早すぎたので、モンケの兄弟たちから選ばれることとなった。有力な候補のフラグは遠くイランにいたので間に合わず、フビライは南宋遠征中であったが中国北部の開平府に急きょ戻り、独自にクリルタイを召集し、第5代ハンに選出された。それに対しカラコルムにいた末弟のアリクブケも、クリルタイで第5代ハンに推挙された。ここに同時に二人のハンが存在する分裂状態となった。両者の間に、フビライは中国本土への進出を主張し、アリクブケはカラコルムにとどまり従来通りの遊牧帝国としてのモンゴル帝国の維持を主張した、という対立であったという説もあるが、疑わしい。またアリクブカは『集史』などでは双方とも第5代ハンと認められているので、この内戦を「アリクブケの反乱」というのは誤っている。西アジアを転戦中のフラグはエジプト攻撃を取りやめてモンゴルに戻ろうとしたが、途中のタブリーズで留まり、西アジアに「ウルス」(モンゴル国家)を建設することに踏み切った。北方のジュチ=ウルス(キプチャク=ハン国)のベルケ(バトゥの弟)が南下し、アゼルバイジャンなどを奪おうとしていることに備えたのである。両者はカラコルムをめぐって4年にわたって激しく戦い、1264年にアリクブケは投降してフビライ政権が成立した。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』上 講談社現代新書 p.140-164>

史天沢 漢人部隊の編制

 またフビライは南宋との戦闘で中国本土を転戦するうちに、モンゴル人の本隊と並んで、漢人・契丹(キタン)人・女真などから成る漢人部隊を編制し、また宋王朝の後退によって各地に自立した漢人軍閥を味方に組み入れていった。1262年には山東地方の軍閥が反乱を起こしたが、同じ漢人大軍閥の史天沢(してんたく)などを抱き込み、鎮圧した。史天沢はフビライに従った漢人軍閥の代表的人物で、モンゴル語にも堪能で元の中国支配に大きな力となった。<同書 上 p.145、下 p.71-72、p.77>

元の建国 フビライの統治

 フビライは1260年、中国北部の開平府でクリルタイを開催してハンに即位し、年号を中国風に中統元年とした。ハンを称した弟アリクブケの勢力を倒した1264年に、従来の首都カラコルムを放棄し、自らの本拠地である開平府を「上都」と改め、かつての金の都であった「中都」(現在の北京)として、ともに首都とした。また年号を至元元年に改めた。1267年に首都を大都(現在の北京)に遷し、モンゴル高原と中国北部にまたがる領域を支配した。71年に国号をに改め、中国的な官制を採用し、1276年に臨安を占領して事実上、南宋は滅亡し、79年にその残存勢力も厓山の戦いで一掃し、全中国を統一支配するに至った。フビライ=ハンは国政の中心機関として唐以来の中書省を継承て最高行政機関し、軍政を統括する枢密院、監察の最高機関である御史台の三機関を皇帝に直属させた。また地方行政区画としては州県制を用いた。また即位とともに、統一紙幣として交鈔を発行し、経済の発展をはかった。

オルトク ムスリムの商人組織

 フビライ(クビライ)は、ユーラシア全土に及ぶ流通経済機構を作り上げた。その担い手となったのが、オルトクといわれたムスリム商人の組織であった。オルトクとはトルコ語で「仲間」あるいは「組合」を意味し、漢字では「斡脱(アツダク)」の字が当てられた。もともと中央アジアではイラン系のソグド人や、トルコ系のウイグル人が活発な商業活動を行っていたが、モンゴル帝国の成立によって彼らのより広範な活動が保障され、彼らは元の経済官僚に組み込まれると共に、オルトクを組織して活動するようになった。オルトクについては次のような説明がある。
(引用)このオルトクは、ようするに、現在の会社である。ムスリム商人勢力は、大小さまざまなたくさんのオルトク、すなわち会社をつくり、活動していた。そのなかには、ムスリム商人とはほんらい別個の地盤をモンゴル領内にきずいていた各種のウイグル商人たちや、漢人商人勢力も、とりこまれていった。資本規模において、「オルトク商人」には、とうていかなわなかったのである。大きな「オルトク」は、通商、運輸・金融から徴税・兵站・軍需まで、なんでもやれる企業体に成長していった。その意味では「総合商社」にちかい。・・・しかも、その活動範囲は、ひとつの「文明圏」をこえて、モンゴル領の東西に及んだ。・・・その顔ぶれも、イラン系ムスリムを筆頭に、ウイグル、漢人、はてはヨーロッパ人さえもいることもあった。まさに「多国籍企業」であった。<杉山正明『クビライの挑戦』1995 講談社学術文庫版 p.225>

フビライの外征と交易圏の拡大

 フビライ=ハンの課題はモンゴル高原の反乱(ハイドゥの乱)の鎮圧と、南宋の征服であった。まず、1267年から南宋の征服に乗り出し、1276年に臨安を占領、事実上、南宋は滅亡した。さらに安南、チャンパービルマなど南方に方面に進出して多くを服属させ、朝鮮の高麗も属国とした。しかし、日本遠征(元寇)には失敗した。フビライ=ハンは東南アジア方面に遠征軍を送って遠征活動を展開したが、その艦隊派遣は交易圏の拡大をめざす側面が強く、南シナ海から東南アジア、さらに南アジア(インド洋)を結ぶ海上ルートがモンゴル帝国によって結びつけられることとなり、海上貿易を活発化させるとともに、イスラーム教の東南アジアへの伝播などの影響をもたらした。

フビライ時代の国際性

 その宮廷には、財務長官にアラブ人のアフマドがあり、マルコ=ポーロも登用され、国際色の豊かなものであった。またチベットからパスパを招き、チベット仏教を保護するとともに公用文字としてパスパ文字をつくらせた。これ以後元はチベット仏教寺院造営に多大の費用を出費することとなる。
 1291~93年にはフビライ=ハンの命令で大都から通州までの運河通恵河)が作られた。その作業にあたった郭守敬は、イスラーム暦を取り入れた授時暦を制定した。

フビライ=ハン晩年の危機

 1287年、中国東北部を領地としていたモンゴルのチンギス=ハン一族の後裔ナヤンなど、東方三王家がフビライに対し反乱を起こした。中央アジアのオゴタイ家のハイドゥも同調する動きを示した。そのときすでに73歳になっていたフビライは、子どもたちにも先立たれており最大の危機であった。しかし彼は果敢に行動した。自ら戦象に乗って反乱軍を急襲し、あっという間に降伏させた。このとき活躍したフビライの親衛隊は、中央アジアからやってきたトルコ系のキプチャク人などの隷民戦士、つまりマムルークであった。「東へ来たマムルーク」と言えるかもしれない。反乱軍の残党は朝鮮半島に逃れたが、間もなく元と高麗の共同作戦で壊滅させられた。こうして最大の危機を乗り切ったフビライは1294年、80歳で長逝した。当時としては異例の長命だった。廟号は中国風の世祖とされた。第6代大ハンには孫のテムル(成宗)が上都でのクリルタイで選出された。
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ノートの参照
第6章3節 イ.元の東アジア支配
書籍案内

杉山正明
『モンゴル帝国の興亡』上
講談社現代新書

杉山正明
『クビライの挑戦』
1995 講談社学術文庫

1995年に朝日選書『クビライの挑戦ーモンゴル海上帝国への道』として出版され、モンゴル帝国の見方に大きな転換を提唱し、サントリー学芸賞を受賞した。2010年に再刊された学術文庫版は「モンゴルによる世界史の大転回」と副題を改めた。