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ルーシ

ノルマン人の一部をスラヴ人がこう呼んだ。東スラヴ人と同化しながら、キエフ=ルーシという国家を作りそれが後のロシア国家に発展する。

 ルーシはルスとも表記する。スウェーデンからロシアに移住したノルマン人と考えられている。「船を漕ぐ人」の意味とも言われるが、定説はない。彼らが先住民のスラヴ人と混血し、現在のロシア人となったと考えられる。また「ルーシ」は、国家としての「ロシア」の語源であるともいう。

ノヴゴロド国を建国

 スカンジナヴィア半島とバルト海沿岸にいたノルマン人は海上に進出してひろくヴァイキングといわれるが、その中で現在のロシア方面に進出したノルマン人を特にヴァリャーグ人ともいわれた。彼らは9世紀中頃、リューリクに率いられてバルト海沿岸から北ロシアに入り、862年ノヴゴロド国を建国した。ルーシといわれたノルマン系の征服民は、その地にいた東スラヴ人を同化させながら、ノヴゴロドを拠点に毛皮、蜜蝋、琥珀、奴隷などを重要な商品とし、水路を伝って南下してドニェプル川に出て黒海方面等の交易を行うようになり、ビザンツ帝国とも接触し、ロシア国家を形成していくことになる。

Episode 「来きたりて統治せよ」 ルースの建国説話

 ロシアの原初年代記『過ぎし歳月の物語』によると、ルースがロシアの地に入ったことには次のような伝承がある。スラヴ人は南からのハザール人(ハザール=カガン国)、北からのヴァリャーグの双方から挟撃され、しかも内部で対立があって苦しんでいた。ヴァリャーグとはノルマン人のヴァイキングのことで、彼らは北の海から川を伝ってやってくる水上武装集団であった。自分たちで問題を解決できなかったスラヴ人は、代表をヴァリャーグのもとに送り、「われらの国は大きくて、豊かだ。しかし、秩序がない。来たりて、公として君臨し、われらを統治せよ」と伝えた。この言葉に同意したヴァリャーグの首領リューリクは、衛士隊とともにノブゴロドに入り、その兄弟たちがさらに各地に向かった。彼らが公として統治する地がルーシの国と呼ばれるようになった、という。この伝承は長い論争があったが、今日ではそのまま受け止められている。ノルマン人はフランス(ノルマンディー公国)にも、イギリスにも王朝(ノルマン王朝)を開いており、このケースも彼らの膨張の一例と見られる。そして他のケースと同じように、彼らは自ら支配する民に同化していった。<和田春樹『ロシア・ソ連』地域からの世界史11 1993 朝日新聞社刊 p.31>

キエフ公国の成立

 リューリックの死後、親戚のオレーグはリューリックの子のイーゴリを助けて勢力を南下させ、882年に同じ一族が治めていたキエフを奪い、その地を新たな拠点とした。これにっよって、ノヴゴロドとキエフの南北が統一され、キエフ公国(キエフ=ルーシ)が成立した。