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スラヴ人

印欧語に属する、6世紀以降、東ヨーロッパに広がる民族。次第に南スラヴ・西スラヴ・東スラヴに分かれる。

 スラヴ民族は、現在東ヨーロッパに広く分布しているスラヴ語系の言語を話す人々。スラヴ語はインド=ヨーロッパ語族の一つである。原住地はよく判らないが、カルパチア山脈の北のヴィスワ川からドニェプル川にかけての一帯で、狩猟・農耕生活を行っていたらしい。
 4世紀からのゲルマン民族の大移動と東側の遊牧民族の動きと密接に関係しながら、移動・拡散を続け、6世紀以降にバルカン半島やロシアの草原に広がり、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を脅かす存在となった。ビザンツ側の記録では、579年にスラヴ人の一部がドナウ川を越えてトラキアに進出、580年にはマケドニアを占拠している。さらに現在のオーストリア北部やボヘミアに定住している。彼らの東ヨーロッパへの拡散は主要河川流域に沿って行われ、その結果、次のような大きく三つの系統に分かれた。
・西スラヴ人 北はバルト海沿岸、南はドナウ川中流まで、東はヴィスワ川流域から西はエルベ川流域まで。
・南スラヴ人 バルカン島
・東スラヴ人 ドニェプル川上・中流を中心としたロシア平原西部
 居住地が異なることによってそれぞれ方言群にわかれながら、その後も移動を繰り返しながら相互に混合し、次第に民族を形成していった。
 7世紀にはブルガリア人(本来はトルコ系で非スラヴ人だがスラヴ人に同化した)のブルガリア王国やチェック人のモラヴィア王国などがビザンツ領内に国家を形成し、9世紀にはロシア草原に最初のロシア人(ノルマン系の征服者がスラヴ系民族に同化した)国家ノヴゴロド国が出現した。
 10世紀にはポーランド王国が建国、東ヨーロッパの強国となっていく。ビザンツ帝国領内に建国したスラヴ系諸民族は、ビザンツと抗争しながらその影響を強く受け、ギリシア正教を受け入れていく。ロシアもギリシア正教を受容し、ビザンツ滅亡後はその保護者となる。ビザンツの影響の薄かった地域のスラヴ民族はフランク王国を通じてローマ=カトリック教会を受容したが、東ヨーロッパはギリシア正教とローマ=カトリック教会が布教を競う場となった。

Episode Slavesの意味

 スラヴ人は英語で Slavs という。また奴隷を意味する英語は Slaves である。これは955年にドイツのオットー大帝がマジャール人を討った時、その地にいたスラヴ人を捕らえ、多数が奴隷として売られてから、ヨーロッパでは「スラヴ」が「奴隷」と同じ意味に使われるようになったからだ、という。<泉井久之助『ヨーロッパの言語』岩波新書 p.120>

東スラヴ人

 ロシア人ウクライナベラルーシ(白ロシア)人。9世紀にスウェーデン系のノルマン人(彼らはルーシと言われた)が移住してきて東スラヴ人と同化してノヴゴロド国、ついでキエフ公国を作った。これがロシアの起源となった。ロシア人など東スラヴ人の多くは、ギリシア正教を受容した。ビザンツ帝国滅亡後はロシア教会が正教の正統を継承したとしている。

南スラヴ人

 セルビア人クロアティア人スロヴェニア人マケドニア人モンテネグロ人ブルガール人(本来はトルコ系だが南スラヴ人に同化)。このうち、ブルガール人=ブルガリア人以外の南スラヴ人は近代に連邦国家であるユーゴスラヴィア(「南スラヴ人の国」の意味)をつくったが、現在は分裂して個別の国家を作っている。南スラブ人の中のセルビア人はギリシア正教の信者となったが、オスマン帝国の支配がバルカン半島に及んだことによって、イスラーム教徒(ムスリム)となった人々も多い。また、クロアティア・スロヴェニアはフランク王国に接していたので、ローマ=カトリック教会を受け入れ、カトリック信者が多い。

西スラヴ人

 ポーランド人チェック(チェコ)人スロヴァキア・ソルブ人(ドイツ東部の少数民族)・カシューブ人(ポーランドのグダンスク西方に住む少数民族)。西スラヴ人の居住地には、12世紀ごろから西方のドイツ人による東方植民が行われ、ポーランドやチェコにはドイツの領土的野心の対象となっていく。西スラヴ人は西ヨーロッパのローマ=カトリック教会圏と接していたので、その影響を受け、カトリック信者となる人が多かった。
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