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死の舞踏

14世紀からヨーロッパで広がった死者と生者が踊る図や詩を「死の舞踏」という。

 1347年からヨーロッパで黒死病といわれたペストが大流行したが、そのころから教会や墓地に「死の舞踏」といわれる壁画が描かれるようになった。その壁画は、生きている人と死者(骸骨やミイラになっている)が一組になり、死者が生者の手を取って行列を作って踊りっている図である。特徴的なことはそこに描かれた人人は、ローマ教皇や皇帝、国王、王女から枢機卿、司祭などの聖職者、騎士や領主、商人や農民、さらに子供までが含まれており、死はそれらの身分や立場を超えて平等にやってくることを示している。これらの絵は「ダンス=マカブル」と言われ、14世紀の初めにフランスの罪なき聖嬰児聖堂の壁画が最初であるらしく、その後ブルターニュなどの地方に広がり、さらにドイツやイタリア、イベリア半島などほぼヨーロッパ全域の教会堂や墓所の壁画に描かれるようになった(その多くは宗教改革の時代に破壊されたり、上から漆喰が塗り込められてしまったが、最近になって原状のままで発見されたものも出ている)。
死の舞踏  その起源は諸説あるが、死者を悼む踊りとして元々あり、黒死病の大流行に直面した人びとが死と向き合うようになり、このような絵を描いたものと思われる。生者に対して常に死を忘れるなと言う、「死を忘れるな!」(メメント=メモリ、死を想え!ともいう)という言葉が当時広く説かれたことに関係が深い。また、「死の舞踏」は教会堂の壁画だけでなく、その写本が出版されるようになり、写本の形で残っているものも多い。15~16世紀にもその流行はつづき、表現はさらに深められ、著名な画家であるホルバインのように、死の舞踏をシリーズで出版し、広く受け入れられたという。
 右図は、1342年にパリの罪なき聖嬰児聖堂記(サン=ジノサン聖堂。16世紀にアンリ4世の暗殺現場となったため取り壊されてしまった)の壁画を元にして、1485年にギュイヨ=マルシャンがパリで出版した本に掲載された「死の舞踏」の一場面。この図では左側が枢機卿、右側が国王がそれぞれ骸骨と手を組んで踊っている。<木間瀬精三『死の舞踏 西欧における死の表現』1974 中公新書>

「死の舞踏」流行の背景

(引用)「暮れなずむヨーロッパ中世に影を落とす生者と死者の舞踏行列。骨と化し、あるいは、内臓や皮膚を残す干からびた死者たちが、身分の貴賤、老若男女を問わず、生きている者たちの手を取って墓場へと誘う。生者たちは、さまざまなポーズをとりながら、過ぎ去りし人生をふり返っては嘆き悲しみ、また、いとおしむ。・・・・‘ダンス・マカーブル’。のちに「死の舞踏」と呼ばれる絵図である。それは苛酷な時代であった。まずはカトリック教会の危機があった。ローマ教皇が南仏のアヴィニヨンに幽閉されたことに始まる教会分裂(1309~77年、教皇のバビロン捕囚)と、それにつづいて、ローマとアヴィニヨンに二人の教皇が立つという大分裂(シスマ、1378~1417年)である。かたや世俗世界では、イングランドとフランスの間に百年戦争が起こった。1339年から1453年にわたって繰り広げられたこの戦いには、世俗の諸権力が巻き込まれて分裂する一方、国土は荒廃し、多くの人命が失われた。加えて1347年、シチリアに上陸した黒死病(ペスト)が瞬く間に北上し、全ヨーロッパの風土を洗い流していった。それらはカトリック教会権威の失墜、世俗権力の伸長、そして何より死亡率の上昇を促し、総じて、中世世界の変容を招いたのだった。死の舞踏が成立する背景には、中世後期の三大危機といわれるこれらの事件があったとされるのが通説である。」<小池寿子『「死の舞踏」への旅 踊る骸骨たちをたずねて』2010 中央公論新社 p.3-4>
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ノートの参照
第6章3節 オ.封建社会の衰退
書籍案内
木間瀬精三『死の舞踏―西欧における死の表現』1974年 中公新書

小池寿子『「死の舞踏」への旅 踊る骸骨たちをたずねて』2010 中央公論新社

小池寿子『死者たちの回廊 よみがえる「死の舞踏」』
1997 平凡社ライブラリー