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黒死病/ペストの流行

14世紀にアジアからヨーロッパにかけてペストが大流行し、封建社会の変質をもたらした。

1347年、コンスタンティノープルから地中海各地に広がったペストの流行は、マルセイユ、ヴェネツィアに上陸、48年にはアヴィニヨン、4月にはフィレンツェ、11月にロンドン、翌年には北欧からポーランドに、1351年にはロシアに達した。ペストの大流行の発生源は解っていないが、ペスト菌を媒介するノミがクマネズミから人間に移り、伝染させるのだが、クマネズミはもともとヨーロッパにいなかったものが、十字軍の船にまぎれ込んで西アジアからヨーロッパに移り住んできたのだという。発病すると最後は体中に黒い斑点が出来て死んでいくので「黒死病(black death)」と言われた。
このときのフィレンツェにおける流行の様子は、ボッカチォ『デカメロン』にくわしく描かれている。またこのころ、ヨーロッパ各地の教会や墓所には「死の舞踏」と言われる壁画が造られた。
 当時のヨーロッパは百年戦争の最中であり、英仏両国にも伝染し、戦局に大きな影響を与え、1358年のフランスのジャックリーの乱、1381年のイギリスのワット=タイラーの乱という農民反乱の背景ともなった。しかし、黒死病の大流行による人口の激減は、生き残った農民の待遇を良くすることとなり、農奴解放がさらに進むこととなる。またそのような社会変動の中から、人間性の解放を求めてルネサンスといわれる文芸や美術での動きが活発となっていた。

黒死病の死者数

 大流行は1370年ごろまで続いたが、ヨーロッパ全体での犠牲者は、総人口の3分の1とか4分の1と言われているが、正確な数字は不明である。ある説によると、当時のヨーロッパの総人口約1億として、死者は2500万程度と推定されている。このペストについては、当時の人々は流行の原因がわからず、一部ではユダヤ人が井戸に毒をまいたからだ、などという噂からユダヤ人に対する虐殺が起こったりした。<この項、村上陽一郎『ペスト大流行』岩波新書 による>

資料 ボッカチォの『デカメロン』

(引用) 「さて、神の子の降誕から歳月が千三百四十八年目に達したころ、イタリアのすべての都市の中ですぐれて最も美しい有名なフィレンツェの町に恐ろしい悪疫が流行しました。それは天体の影響に因るものか、或いは私どもの悪行のために神の正しい怒りが人間の上に罰として下されたものか、いずれにせよ、事の起こりは数年前東方諸国に始まって、無数の聖霊を滅ぼした後、休止することなく、次から次へと蔓延して、禍いなことには、西方の国へも伝染してきたものでございました。 それに対しては、あらゆる人間の知恵や見通しも役立たず、そのために指命された役人たちが町から多くの汚物を掃除したり、すべての病人の町に入るのを禁止したり、保健のため各種の予防法が講じられたりいたしましても、或いは、信心ぶかい人たちが恭々しく幾度も神に祈りを捧げても、行列を作ったり何かして、いろいろ手段が尽くされても、少しも役に立たず、上述の春も初めごろになりますと、この疫病は不思議な徴候で恐ろしく猖獗になってきました。」<ボッカチオ『デカメロン』 野上素一訳 岩波文庫 第1冊 p.55-56>
『デカメロン』はボッカチォが1348~53年の間に書いた物語集で、『十日物語』とも言われる。ペストの流行から逃れてある邸宅にひきこもったフィレンツェの10人の男女が10日間にわたり、1夜にそれぞれが1話ずつ退屈しのぎの話をする形式をとっている。

その他の地域のペスト

 14世紀の中ごろ、イスラーム圏のエジプトを中心としたマムルーク朝にもペストが広がり、人口が減少し、その国力が衰えるきっかけとなった。また16世紀にはヨーロッパからラテンアメリ以下に持ち込まれ、インディオの減少の一因となった。

その後の大流行

 14世紀の大流行の後には、17世紀にヨーロッパ全域で大流行している。特に1665年のロンドンで大流行し、『ロビンソン=クルーソー』で有名なイギリスの作家デフォーが『疫病流行記』という記録を残している。ペストの最後の大流行は19世紀末に起こった。このときは中国から始まり、アジアで急激に広がり日本にも伝わった。しかし、1894年、流行の中心地香港に派遣された北里柴三郎がペスト菌を発見し、ノミがネズミから病原菌を人間に伝染させることが判明した。この流行は1910年代に収束したが、このときの北アフリカ・アルジェリアにおける流行を題材としたのが、アルベール=カミユの『ペスト』である。

Episode ニュートンの創造的休暇?

 1665年のイギリスでのペストの大流行が、科学の歴史上きわめて重要な副産物を残したとされている。というのは、ニュートンはこのときケンブリッジのトリニティ=カレッジを卒業したが、大学がペスト流行の凄まじさのために休校を繰り返していたので、しかたなく故郷の田舎に帰り、ぼんやりと日を過ごすうちに、光の分光的性質と、重力の逆二乗法則を、そしてさらに微積分計算の基本的アイデアを発見したと言われているからである。この「已むを得ざる」休暇とか、「創造的休暇」と呼ばれるエピソードはペストのもたらした最も大きな成果と伝え継がれてきたた。この話はニュートン自身が後年ライプニッツと微積分法の発明の先取権を争ったときに自ら証言したことであるが、どうやらよくある英雄譚の一つであるようだ。<村上陽一郎『ペスト大流行』岩波新書 p.180-181>
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ノートの参照
第6章3節 オ.封建社会の衰退
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村上陽一郎
『ペスト大流行』
1983 岩波新書